米津玄師「ピースサイン」
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不甲斐なくて泣いた日の夜に
ただ強くなりたいと願ってた
そのために必要な勇気を
探し求めてた
≪ピースサイン 歌詞 より抜粋≫
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彼は孤独で、とにかく自分一人の力で自分のためだけに問題を解決しなければいけない厳しい立場の人間であることがうかがえる。が、しかし、
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いつだって目を腫らした君が二度と
悲しまないように笑える
そんなヒーローになるための歌
さらば掲げろピースサイン
≪ピースサイン 歌詞 より抜粋≫
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といきなり“君”が登場する。「不甲斐なく・・・」の歌詞とは対称的に、彼は泣き虫の彼女を守るヒーローに変身している。
そして、ここからこの曲はダメ男への応援歌ではなく、前向きなブライダルソングへとシフトチェンジするかと思うと再び、
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守りたいだなんて言えるほど
君が弱くはないのわかってた
それ以上に僕は弱くてさ
君が大事だったんだ
≪ピースサイン 歌詞 より抜粋≫
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とまたネガティブな空気に戻る。
無言の反論が隠れている
君は何に対して弱くはないのか。そして僕は何に対して弱いのか。それは「残酷な運命」だろう。と思いがちだが、彼は「それがいつの日か僕の前に現れるとして」と言っている。
つまり、「残酷な運命」に君も僕もまだ遭遇していないのだ。とすると、君が目を腫らして泣いている理由は、そこまで重大な問題ではないということが透けて見える。
つまり、この歌詞からほのかに見えるのは、まさに男女の力関係だ。君は何に対して弱く、僕は何に対して弱いかなど書く必要はないのだ。なぜならそれは“常識的に見て”だからだ。
常識としての前提条件として君は弱いけど、変態事項として僕が君より弱いのだということだ。そしてその裏側には、“でも君が目を腫らして泣いていることに対して僕は泣かないよ”という無言の反論が隠れているのだ。
言ってしまうと
「いつだって目を腫らした君が」の裏側には男は強いものだ。女は弱いものだ”という決まり事が、
そして、「それ以上に僕は弱くてさ君が大事だったんだ」には、“日本の常識では男は女性を守り、養うものですが、僕は常識を満たしていません。僕は弱いのです。”という例外がしっかりと棲んでいるのだ。
ネットでその瓦解が懸念されるほどの神秘性
ではどうして、米津玄師は平成も終わりに近づいた今、昭和の匂いのする男女の当たり前の姿を書きたかったのか。それは“男は女より強いものだ”という常識が、彼の中で決して曲げてはいけないものだからだ。常識は残して、そこに付随して現れるハラスメントは葬り去りたい。
そのために彼は、「僕は弱くてさ」という言葉を使ったのだ。「僕は弱くてさ」は米津玄師にとって最強の武器だ。そこには「僕はこう思う」「これは違う」という彼の強い主張、そして彼女への愛の深さ、絶対2人は幸せになってやるという強い決意、すべてが凝縮されているのだ。
そこで私は思うのだ。米津玄師は一般的に言われるように、ミュージックシーンが形作るほど、日常生活から逸脱した存在なのだろうかと。
彼の隣にはいつも常識が座っていて、彼は四六時中たとえ睡眠中だろうが、“そいつ”からの微妙なずれ、ほとんど見えない隙間に怯え、苦しんでいる。裏を返せば、一般人なんかよりもずっと、典型的でありたい、標準でありたいという強く願っている人間だと思えるのだ。
そのため私は、彼が、ネットでその瓦解が懸念されるほどの神秘性を持っていることすら疑問を持つのだ。
米津玄師が尾崎豊と決定的に違うのは、尾崎が青春の一瞬の輝きをガッと両手にかき集めて歌にしたのに対し、米津玄師の歌は、擦り切れ、消費されていくダラダラの状態そのものだ。リスナーは彼が歌い叫ぶところを偶然に通りかかって覗き見たにすぎないのだ。
米津玄師は決してリスナーが守り、隠し、犯しがたい存在として祭り上げるものではない。
等身大の姿を映す鏡
彼はまさに、簡単に叶えられるはずの理想に対して、あと数cm足が届かなくて溺れかかっているけれど、前には泳いで行ける、そんな普通の人々の等身大の姿を映す鏡なのだ。あと何年、彼を見ることが出来るかわからないが、できれば、中年になり枯れ果てた米津玄師にたどり着けるまで、この出口のない安定の中で頑張っていこうと思った。
TEXT:平田悦子