「さよなら」さえ言えない夜に、ただ歌があった
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This is a fxxking sad song for you guys
It's fxxking hard to say it, goodbye
≪SAD SONG 歌詞より抜粋≫
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この冒頭の2行は、『SAD SONG』という楽曲の核心ともいえる、剥き出しの感情表現が詰まった一節です。
まず、「fxxking」というスラングの強調語が印象的ですが、これは単なる過激な表現ではありません。
英語圏の若者の間では、言葉にできないほどの感情や苦しさをどうにかして表現しようとする時に使われることがあります。
この場合、「とても」と訳すだけでは足りず、「くそったれなほど」「どうしようもないくらいに」といった感情の揺れと爆発を含んでいると考えると良いでしょう。
さらに、「for you guys」と呼びかけていることもポイントです。
これは一人に向けたものではなく、聞いている「あなたたち」すべてに捧げる歌であるということだと思います。
悲しみは個人的なものですが、それを音楽にすることで普遍的な共有の感情として差し出す、ちゃんみならしい姿勢が見てとれますね。
「It's fxxking hard to say it, goodbye」というラインは、「さよなら」と言うことがどれほどつらいのかを率直に伝えています。
ただ「別れたくない」ではなく、「言葉にすることさえも苦しい」。
つまり、感情を口にすること自体が痛みを伴うのだと歌っています。
この冒頭2行は、歌全体に流れる感情の地盤を作り上げています。
「これはただの”悲しい曲”じゃない。どうしようもない想いが詰まった、私から”あなたたち”へのリアルな叫びなんだ」というメッセージが伝わってきました。
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Did you see that beautiful moon and stars?
前見た時より綺麗だ
Hello how are you はじめまして
ずっと会いたかったんだよ
≪SAD SONG 歌詞より抜粋≫
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ここでは、夜空を見上げながら誰かと感情を共有するような、静かな親密さが感じられます。
「月と星が綺麗」という言葉は、一見ロマンチックな表現ですが、ちゃんみなの歌詞ではよくある比喩(「月」を遠くの君に見立てたり、「星」を涙に重ねたりするメタファー)とは異なり、”今この瞬間”の特別さを際立たせる役割を持っています。
「月と星が前よりも綺麗に見える」とは、”今この瞬間”の心の変化を素直に表したものであり、誰かと出会えたことで世界の見え方さえ変わるという、感覚そのものの変化をリアルに描写しているようです。
つまりこの部分には、詩的でありながら、ちゃんみな特有の「作り込みすぎない」「嘘のない」言葉選びが現れており、愛や再会によって視界と世界が変わる、情景と感情が地続きで繋がっているように感じますね。
続く「Hello how are you はじめまして ずっと会いたかったんだよ」では、「はじめまして」と「ずっと会いたかった」という一見矛盾するような言葉の組み合わせが、とても印象的です。
これは、実際の出会いというより、心の中ではすでに何度も想い描いていた誰かにようやく会えたというニュアンスだと考えられます。
たとえば、ずっと画面越しに見ていたアーティストとの対面、長年片想いしていた人との出会い、あるいは「理想の誰か」との邂逅、そういった心の中の”憧れ”が現実になった瞬間なのかもしれません。
また、「Hello how are you」という英語表現の使い方からも、日常の挨拶の中にある”本当の気持ちを隠す”皮肉のようなものが垣間見えます。
「はじめまして」なのに「ずっと会いたかった」という言葉には、距離と時間を超えてようやく触れられた温度が込められているようですね。
この4行は、悲しみや別れを語る歌の中で、「出会えたことそのものが奇跡である」と伝える最初の光のような場面です。
この出会いの喜びがあるからこそ、その後に訪れる”さよなら”が怖くて仕方がない。
だからこの歌は、ただの「悲しい歌」ではなく、「愛しい出会いと、それに続く別れを一緒に抱きしめよう」とする、誠実なラブレターのように響くのかもしれません。
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君に会うまでの間
少しだけ心配してた
でも君はなんて事ないって顔してる
ずっとそばにいてよ
こんなご時世にさ
そんなわがままダメなのかな
≪SAD SONG 歌詞より抜粋≫
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ここで語られている「心配」は、おそらく「ちゃんと会えるのか」「自分の気持ちを受け取ってもらえるのか」といった関係性への不安のように見えます。
「少しだけ心配」と控えめに言いながらも、その裏には本当はもっと大きな不安があったのではないかと感じさせる表現です。
それでも、その後に続く「でも君はなんて事ないって顔してる」という一節には、一見「安心」や「癒し」の描写にも見えますが、視点を変えると”温度差”や”すれ違い”を感じさせる描写でもありますね。
それまで不安を語っていた主人公にとって、その相手が「なんて事ない顔」をしていたという事実は、2人の間に「感情のギャップ」を呼び起こすのではないでしょうか。
「ずっとそばにいてよ」という一言は、ただの願いではなく、”そのギャップを埋めたい”という切実な思いから出てきたものとも捉えられます。
相手の「なんて事ない顔」が、本当に「気にしていない」のか、それとも「気持ちを隠している」のかは分からないけれど、自分はそれまで怖くて、会えた今だってまだどこかに不安が残っているような気さえしますね。
だからこそ、「そばにいて」と願ってしまう、これは、相手との関係性を”確かめたい””繋ぎ止めたい”という、根源的な安心欲求の表れなのだと受け取りました。
次の「こんなご時世にさ そんなわがままダメなのかな」での”わがまま”という自己評価は、自分の中の「求めたい気持ち」と「抑えなきゃいけない理性」の間で揺れている姿のようです。
相手の反応に少しだけ孤独を感じたその心に、社会的な距離や現実も重なって、なおさら「こんな気持ち、迷惑なのかな」と自分を責めてしまっているのかもしれません。
この歌詞は、表面だけ見ると「会えて良かった」といった安堵の場面に思えますが、実際はもっと複雑で、”嬉しさの裏にある不安”・”相手との感情のずれ”・”それでも求める心”が重なっていることがわかります。
ちゃんみなはここで、「好きな人との気持ちのタイムラグ」という、誰もが一度は感じたことのある感覚(「どうして自分ばかりこんなに不安なんだろう」、「この気持ち、重たいと思われないかな」といった気持ち)をリアルに描いています。
信じる強さも、疑う弱さも、全部引き受けて生きていく

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This is a fxxking sad song for you guys
It's fxxking hard to say it, goodbye
So tell me
この夢が終わる時はそっと教えてね
≪SAD SONG 歌詞より抜粋≫
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このフレーズは、楽曲の冒頭にも登場していた言葉が再び繰り返されています。
冒頭では、まるで宣言のように「どうしようもない想いの吐露」だと切り出しましたが、ここでは楽曲が進む中で感情がより深まり、その”悲しみ”がよりパーソナルなものとして響いてくるように感じられます。
冒頭と同じ言葉でありながら、繰り返されることによって感情の強度が増しているように感じられます。
まるで一度では言い切れなかった悲しみや迷いを、もう一度口に出すことで整理しようとしているのかもしれませんね。
続く「So tell me この夢が終わる時はそっと教えてね」という一節は、それまでの強い言葉遣いから一転して、とても繊細で静かな願いが込められているように感じます。
ここでの「夢」は、現実逃避的な意味での”夢のような時間”かもしれませんし、はたまた、恋人との関係や、アーティストとしての活動、ライブの瞬間など、「終わってほしくない何か尊いもの」を象徴しているのではないかと考えられます。
「そっと教えてね」という言葉の選び方からは、その終わりが突然やってくることへの恐れ、そしてその終わりをできるだけ優しく迎えたいという願いが感じられます。
「誰かに終わりを告げられるくらいなら、自分の方から気付きたくない」、そんな心の奥にある抵抗感が込められているのかもしれません。
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This is a fxxking love song for you guys
さよならはまだ先でしょう
もう少しこうしてたい
できるだけ
≪SAD SONG 歌詞より抜粋≫
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このパートでは、それまで繰り返されていた「sad song(悲しい歌)」が「love song(愛の歌)」へと変化している点が印象的です。
冒頭から続いてきた”別れ”や”終わり”への不安と悲しみの感情が、ここで一転し、今ある愛を抱きしめたいという前向きな気持ちにフォーカスされているように感じます。
「さよならはまだ先でしょう」という言葉からは、別れが避けられない未来にあることを、どこかで理解しつつも、今はまだ大丈夫だと自分に言い聞かせているような様子が伝わってくるようです。
それは、希望的観測とも、あるいは愛する人や大切な存在に対して縋るような気持ちだとも受け取れます。
「もう少しこうしてたい」という一節は、具体的な行動や場面が描かれているわけではありませんが、それがかえってささやかな日常の中の”寄り添う時間”を大切にしているような印象を与えます。
隣で笑い合ったり、何気ない会話を交わしたり、そうした「”今ここにある”愛を永遠にしたい」という願いが込められているのかもしれません。
最後の「できるだけ」という言葉は非常に余韻を残します。
この控えめな表現にこそ、強い気持ちを押しつけたくない優しさや、受け入れざるを得ない別れへの恐れが滲んでいるように思えました。
動画冒頭にてちゃんみなが語った「永遠に続くものではないのかもしれないと思った寂しさ」と「永遠に続いてほしいという子供っぽさ」は、この「もう少しこうしてたい」という言葉にも深く重なるように感じられました。
大人になるにつれて、すべての関係や時間には終わりがあるという現実を知ってしまいます。
だからこそ、いま隣にある温もりや、大切な人と過ごすひとときが、儚く、かけがえのないものに見えてしまうのかもしれません。
それでも「もう少しだけ」「できるだけ」と願う姿には、終わりがあると分かっていながらも、それでも永遠を信じていたいという、どこか「幼さの残る純粋な心」が滲んでいるように感じますね。
ちゃんみなの言う「子供っぽさ」とは、現実を知った上でなおも希望を捨てない、「痛みとともに生きる強さ」なのかもしれません。
そしてこの楽曲自体が、そのような不完全さや矛盾を抱えた”愛のかたち”を、そのまま音楽として表現しているように思えます。
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本当のこと教えてよ
後で悲しみたくないの
例えば君の正体は
お化けだったとかさ
≪SAD SONG 歌詞より抜粋≫
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ここで出てくる「本当のこと教えてよ」という言葉には、信じていたものから裏切られる不安や、相手との関係を築く上で誠実であってほしいという願いが込められているようです。
そして「後で悲しみたくないの」という一文からは、その不安の根底には過去の傷つき体験や、未来に対する恐れがあるのかもしれません。
そして、「例えば君の正体はお化けだったとかさ」という喩えは、一見突飛な表現に見えますが、相手に裏の顔があったらどうしよう、実は思っていた存在と違ったらどうしようという、誰もが恋愛や人間関係で感じるような不安を、やわらかく表現しているようです。
「お化け」は一般的に、この世のものではない存在、つまり「本当はそこにいてはいけないもの」や「正体がはっきりしないもの」として描かれます。
そんな「お化け」のイメージを喩えに出すことで、相手の素性や本心が掴めないことへの不安や、幻想や夢のように消えてしまいそうな存在への儚さを象徴しているのかもしれませんね。
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でもきっと今のところ
それでもいいってくらい君が好きだ
ほら見てそんな感じで笑うから
変な話だよね
≪SAD SONG 歌詞より抜粋≫
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「でもきっと今のところ」という言い回しには、どこか一時的な安心感や、儚い安定がにじんでいるようです。
しかしその裏には、未来に対する小さな不安や疑いが見え隠れしています。
ですが、「それでもいいってくらい君が好きだ」と続けることで、不安を超えるほどの大きな愛情を語っているように感じます。
続く「ほら見てそんな感じで笑うから」という一節からは、相手の何気ない微笑みが、語り手の心をふっと軽くし、「やっぱりこの人のことが本当に好き」だと再確認するような瞬間が浮かびます。
これは、理屈ではない”好き”の感覚に包まれている状態とも言えるかもしれません。
そして「変な話だよね」という締めの一言は、自身の感情に対してちょっと照れくささや戸惑いを交えた、軽い自虐のようなやわらかさを感じさせます。
論理的に考えれば「そんな相手はやめておいた方がいい」のかもしれない。
けれども、そういった”正しさ”を超えて、どうしようもなく好きになってしまった自分を少し笑ってしまうような、そんな心情が現れているのではないでしょうか。
このパートには、疑い・受け入れ・愛しさ等が交錯していて、人を好きになることの複雑さや不器用さが、まるごと描かれているように思います。
これが私の本音なのだと、ちゃんみなは語っているのかもしれません。
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背が止まる頃に
永遠って言葉を疑うのかな
≪SAD SONG 歌詞より抜粋≫
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この「背が止まる頃に」というフレーズは、「成長が終わる頃=大人になる頃」といった、子どもの頃は当たり前のように信じていた「永遠」という概念に、疑問を持ち始める。
そんな人生の節目と心の変化を、詩的に表現しているように感じます。
また、「疑うのかな」と問いかける形になっているのも印象的です。
これは断定ではなく、あくまでも自分自身の中での葛藤や揺れを表しているように思えます。
「疑いたくないけれど、少しずつそう思ってしまうかもしれない」、そんな矛盾を抱えた心の声がにじみ出ているようです。
このフレーズの背景には、ちゃんみな自身が大人になっていく中で感じた、”時間”や”関係性”の有限性に気付く寂しさがあるのかもしれません。
けれど同時に、その気付きの中で、それでもなお「永遠を信じたい」と願うどこか無邪気な、純粋な気持ちも残っている、そんな二つの感情が交差しているように思えます。
消えてもなお咲く、愛の花を抱いて

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願うならこんな私が
死んでもこの愛だけは
せめて
残って咲いてますように
≪SAD SONG 歌詞より抜粋≫
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このパートは楽曲全体の中でも特に強く、切実な祈りが込められたフレーズに思えます。
「死んでもこの愛だけは」という表現からは、自分自身の存在がいつか消えてしまうことへの覚悟や、抗えない”終わり”に対する静かな受け入れが読み取れる一方で、それでも「愛だけは残ってほしい」と願う姿が浮かびます。
中でも特に「こんな私が」という自己表現も印象的です。この”こんな”という言葉には、不完全さや不器用さを受け入れながらも、それでも大切な人に何かを託したいという気持ちが込められているのかもしれません。
不安や弱さを抱えていて完璧じゃなかったとしても、「この気持ちだけは本物なんだ」と訴えているようにも思えます。
そして「残って咲いてますように」という表現には、愛が”花”として形を持ち、時間が経っても誰かの心の中に咲き続けてほしい、という願いが込められているように感じます。
ただ残るのではなく、「咲く」というポジティブな比喩を用いていることで、たとえ自分がいなくなったとしても「愛が美しい形で世界に残ってほしい」、そんな希望や救いがこの一節には見えてきます。
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今はただこんな私の
この音とこんな歌声を
信じていて欲しいんだ
できるだけ
≪SAD SONG 歌詞より抜粋≫
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この一節は、アーティストとしてのちゃんみな自身の最も等身大の願いが、まっすぐに表現されているように感じます。
「こんな私」「こんな歌声」といった表現には、完璧ではない自分、傷ついたり迷ったりしている自分をそのまま差し出すような、どこか弱さと正直さがにじんでいます。
「この音とこんな歌声を信じていて欲しいんだ」というフレーズは、音楽に全身全霊を込めているちゃんみなにとって、それが自分そのものの証であり、愛の伝達手段であることを示しているようにも思えます。
言葉では伝えきれない想いや、形にできない感情を、音楽を通じて届けようとしている、そんな想いが込められているようですね。
また、「信じていて欲しい」という言葉の裏には、”信じてもらえないかもしれない”という不安や孤独感も隠されているのかもしれません。
だからこそ、そのあとに続く「できるだけ」という表現がとても印象的です。
強く願っているのに、どこか遠慮がちで、無理は言わない。
けれどほんの少しでも、信じていてくれる人がいたら救われる、といった誠実さを感じさせます。
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It's hard to say it
I can't say it
I never say it
I don't want to say it
It's hard to say it
I can't say it
≪SAD SONG 歌詞より抜粋≫
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このパートでは、「言えない」という気持ちが何度も繰り返されているのが特徴的です。
単なる言葉遊びではなく、言葉にできない感情の重さや揺れを強調しているように感じられます。
特に「goodbye」を言うことへの抵抗感がどれほど深く強いかを、直接的な表現ではなく、”繰り返し”という手法で伝えているのかもしれませんね。
不完全な私が紡ぐ、信じてほしい歌声

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願うならこんな私が
死んでもこの愛だけは
せめて
残って咲いてますように
今はただこんな私の
この音とこんな歌声を
信じていて欲しいんだ
≪SAD SONG 歌詞より抜粋≫
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冒頭では、「私」がこの先いなくなってしまう可能性、つまり”死”という極端な想像をあえて持ち出しながらも、それでも「愛だけは残ってほしい」という、切実な願いが語られているように感じられます。
「咲いてますように」という言葉には、ただ「残る」だけでなく、その愛が命を持ち、花のように「美しく生き続けてほしい」という思いが込められているようにも思えます。
「せめて」と前置きしていることからも、自分自身の存在が消えてしまってもいい、というある種の自己犠牲的な覚悟すら感じられます。
それだけ、相手に捧げた愛や想いが大切で、永遠に残ってほしいという強い願望があるのかもしれませんね。
この箇所は、前にも登場した「永遠」に対する憧れや、終わりのある関係への不安とも呼応しているように感じられます。
「終わるものだからこそ、せめて愛の痕跡だけでも残っていてほしい」、そんなふうに受け取ることもできそうです
そしてそのあとに続く「今はただこんな私の この音とこんな歌声を 信じていて欲しいんだ」という言葉は、歌い手としての切なる願いであり、リスナーへのメッセージでもあるように思えます。
「こんな私の」「こんな歌声」という表現からは、自分に対するどこか不完全であるという自覚や、劣等感のようなものも感じられます。
しかしそれでも、「信じてほしい」と訴える声には、音楽を通じて想いを伝えるという意志がしっかりと込められているように思います。
「愛が咲いて残るように」と願う一方で、「今この瞬間の自分」を受け入れ、信じてほしいと願う。
この一連の流れには、一人のアーティストとして、また一人の人間としてのちゃんみなの本音が静かに浮かび上がっているのではないでしょうか。
このパートは、曲全体の中でも特に心の奥底にある”本当の想い”をそっと差し出すような場面に感じられます。
永遠を願いながらも、自分の存在の儚さを認め、だからこそ今を信じてほしい。
そんな真っすぐで壊れやすい愛の表現がここに込められているのかもしれません。
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This is a fxxking sad song for you guys
It's fxxking hard to say it, goodbye
So tell me
この夢が終わる時はそっと教えてね
≪SAD SONG 歌詞より抜粋≫
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はじめのフレーズは、楽曲の冒頭にも登場した一節です。
曲の中盤で再び繰り返されることにより、この言葉の重みが一層強調されているように感じられます。
「sad song(悲しい歌)」であると明言しながらも、それを”fxxking”と形容することで、ただの悲しみでは済まされない、怒りや悔しさ、切実さを伴う強烈な感情が込められているようにも思えます。
そして「goodbye(さよなら)」を口にすることの難しさ、それは単なる別れではなく、自分の中の何か大切なものを手放すような、耐えがたい痛みを意味しているのかもしれません。
続く「So tell me この夢が終わる時はそっと教えてね」では、「夢」という言葉が使われていますが、これは比喩的な表現で、今一緒に過ごしている時間や関係そのものを指しているのかもしれません。
「夢が終わる」という表現には、「今が夢のような時間である」という前提があるようにも思えます。
つまり、それほどまでに儚く愛おしい瞬間を生きているということなのでしょう。
その夢が終わる時が来たら、「そっと教えてね」と願う控えめな言い回しには、その終わりを無理に引き止めたり拒んだりせずに、静かに受け止めたいという想いが感じられます。
同時に、それは終わりが来ることへの恐れや覚悟、そして最後の瞬間までは一緒にいたいという切なる希望のようにも受け取れますね。
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This is a fxxking love song for you guys
さよならはまだ先でしょう
もう少しこうしてたい
できるだけ
≪SAD SONG 歌詞より抜粋≫
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「This is a fxxking love song for you guys」の一節では、先ほどまで「sad song(悲しい歌)」と表現されていたものが、今度は「love song(愛の歌)」に変わっています。
しかもそこには同じく”fxxking”という強い言葉が添えられており、一筋縄ではいかない愛の重さや、感情の激しさが滲んでいるように感じます。
これは単なる恋愛の甘さを歌ったラブソングではなく、痛みや別れの予感を内包した、必死で抗うような愛の歌なのかもしれませんね。
「love」と「sad」が一つの楽曲の中で繰り返されることにより、ちゃんみなが描く感情の複雑さがより浮き彫りになっているように思えます。
また、このパートでは、「別れ」が避けられない未来であることをどこかで感じながらも、「それでも今だけは終わってほしくない」という切実な思いが滲んでいるようにも思えます。
「さよならはまだ先」と自分に言い聞かせるような言葉には、別れを先送りにしてでも、今の関係を守りたいという静かな願いが込められているようです。
「こうしてたい」「できるだけ」といった曖昧な表現には、具体的な行動を描かないことでかえって、笑い合う時間や何気ない会話など、日常のささやかな幸せを大切にしたい気持ちが浮かび上がってくるように感じられます。
「ずっと」ではなく「もう少し」、そして「できるだけ」と語るその控えめな語り口が、終わりを受け入れながらも、それでも今だけはこの時間が続いてほしいと願う、淡くて深い愛情を表しているように思えました。
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永遠って事にしておこうよ
このままずっと笑いあってよう
子供みたい永遠なんてないとか
なんて言われても関係ない
もしもこの夢が覚めたとして
もう一度歌って叫んででも I cannot say it
さよならはできないから
≪SAD SONG 歌詞より抜粋≫
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そしてここでは、「永遠」という言葉への憧れと、それに対する現実の冷たさの狭間で揺れる感情が描かれているように感じます。
「永遠なんてない」という現実的な声があっても、それを「子供みたい」と笑われても構わない。
そう語るようなこの一節には、理屈や常識では割り切れない「信じたい気持ち」が表れていますね。
「永遠って事にしておこうよ」という言い回しには、どこか悪戯っぽい子供らしさを含む言い回しで、真実ではなくてもいいから、”そうであることにして”希望を保ちたいという切なさが伺えます。
たとえそれが嘘だとしても、「今笑い合えることの方が大切だ」という、そんな価値観が垣間見える気がしました。
ラストは再び、現実の終わりである「夢が覚める」ことに言及されていますが、それでも「さよならはできない」と強く否定されています。
夢が覚める=関係の終わりや別れを意味しているのだとすれば、それに抗うように「もう一度歌って叫んででも」と続くのは、たとえ終わっても、感情をぶつけてでも”別れ”を受け入れたくないという強い意志の表れではないでしょうか。
この「I cannot say it」も、楽曲の冒頭や中盤でも繰り返されてきたフレーズです。
「どうしても別れを告げることができない」というメッセージが、この楽曲全体を貫く核心的なテーマであり、悲しみと愛のせめぎあいの中で、ちゃんみな自身が何度も葛藤していることが伝わってくるように感じました。
このパートは、儚いことを理解しながらも、それでも信じていたい、繋がっていたいという幼さと誠実さが共存する場面として、とても印象深い部分だと思います。
夢が覚めても終わらせたくないという気持ちは、リスナーにも共感を呼ぶのではないでしょうか。
儚くも深い愛の祈りと感情の吐露が折り重なるラブソング
このちゃんみなの楽曲は、儚くも強い「愛」の祈りをテーマにしているようです。自分の不完全さや死への覚悟を抱えつつも、愛だけは美しく咲き続けてほしいと願う切実な想いが込められていました。
また、音楽を通じて自分の本音や感情を伝えたいという誠実な願いも表現されています。
別れの悲しみや終わりへの恐れを抱えながらも、今この瞬間の繋がりを大切にしたいという複雑な感情が伝わってきましたね。
ちゃんみなは、永遠への憧れと現実の儚さを抱えた「真っすぐで繊細な愛の物語」をこの曲で描いているようです。