チェッカーズメンバーの出身地や年齢を紹介!
チェッカーズは音楽的な人気だけでなく、ステージ衣装のチェック柄ファッションやヘアスタイルを流行させたほど、カリスマ的な魅力を持つメンバーが特徴的でした。はじめに、チェッカーズメンバー7人のプロフィールを紹介します。
藤井郁弥(ふじい ふみや)
誕生日 | 7月11日 |
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年齢 | 63歳 |
身長 | 164.9cm |
出身地 | 福岡県 |
血液型 | A型 |
藤井郁弥(ふじいふみや)、通称フミヤは、チェッカーズのリードボーカル担当で、バンドで最年長のメンバー。
曲によっては、ブルースハープやアコースティック・ギターを演奏することもありました。
1986年リリースのシングル「NANA」以降は、ほとんどの楽曲の作詞を担当。
前髪を長く垂らした「フミヤカット」が流行したほど、ビジュアル面でも注目される存在でした。
チェッカーズ結成前は、国鉄(現在のJR)の職員だったというキャリアの持ち主です。
武内享(たけうち とおる)

誕生日 | 7月21日 |
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年齢 | 63歳 |
身長 | 166cm |
出身地 | 福岡県 |
血液型 | O型 |
武内享(たけうちとおる)、通称トオルはチェッカーズのリーダーで、ギターとコーラスを担当。
チェッカーズの楽曲アレンジにおける中心的な存在として活躍し、1988年リリースのシングル「ONE NIGHT GIGOLO」などの楽曲では作曲をつとめました。
音楽的な分野に限らず、あらゆる面でリーダーシップを発揮した兄貴分的なキャラで、チェッカーズのメンバーをまとめていました。
藤井郁弥をチェッカーズに誘った張本人だとも言われています。
高杢禎彦(たかもく よしひこ)
誕生日 | 1962年9月9日 |
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年齢 | 62歳 |
身長 | 173cm |
出身地 | 福岡県 |
血液型 | A型 |
高杢禎彦(たかもくよしひこ)、通称モクは、チェッカーズのサイドボーカルで低音パートを担当。
ステージでのボーカル立ち位置は向かって右側で、タンバリンなどのパーカッションを演奏したり、曲によってはリードボーカルをつとめたりしていました。
藤井郁弥とは保育園時代から遊んでいた幼馴染の関係で、小さい時からガキ大将だったそうです。
チェッカーズ時代のトレードマークはリーゼントとヒゲ、サングラスでした。
大土井裕二(おおどい ゆうじ)
誕生日 | 1962年11月2日 |
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年齢 | 62歳 |
身長 | 176cm |
出身地 | 福岡県 |
血液型 | B型 |
大土井裕二(おおどい ゆうじ)、通称ユウジはチェッカーズのサブリーダーで、ベースとコーラスを担当。
「I Love You, SAYONARA」や、テレビ番組「ひらけ!ポンキッキ」に提供した「ガチョウの物語」などの楽曲を作曲しました。
チェッカーズに加入する前は、アマチュアバンド「シークレッツ」に在籍。
解散後に、新しいバンドを組むまでのつなぎとしてチェッカーズに加入したものの、結果的に解散まで在籍しました。
鶴久政治(つるく まさはる)
誕生日 | 1964年3月31日 |
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年齢 | 61歳 |
身長 | 172cm |
出身地 | 福岡県久留米市 |
血液型 | A型 |
鶴久政治(つるく まさはる)、通称マサハルは、チェッカーズの高音(ファルセット)パートのサイドボーカルで、後半はキーボードを担当することもありました。
ステージのボーカル立ち位置は向かって左側。
「WANDERER」「夜明けのブレス」などの楽曲では、作曲をつとめました。
未成年時代から喫煙者が多いチェッカーズメンバーの中で、唯一の非喫煙者。
理由は、ファルセットを出すために喉を大事にしているからだそうです。
藤井尚之(ふじい なおゆき)

誕生日 | 1964年12月27日 |
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年齢 | 60歳 |
身長 | 171cm |
出身地 | 福岡県久留米市 |
血液型 | A型 |
藤井尚之(ふじい なおゆき)、通称ナオユキはフミヤの弟で、チェッカーズの最年少メンバー。
ベース担当でしたが、ユウジが加入してからサックスに転向しました。
サックスはソプラノ、アルト、テナー、バリトンを使い分け、曲によってはフルートを演奏することもあります。
「NANA」「素直にI'm Sorry」などの楽曲では、作曲をつとめました。
チェッカーズに加入したきっかけは、お母さんがフミヤに頼んだからだと言われています。
徳永善也(とくなが よしや)
誕生日 | 1964年6月7日 |
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年齢 | 享年40歳 |
身長 | 174cm |
出身地 | 福岡県久留米市 |
血液型 | A型 |
クロベエこと徳永善也(とくなが よしや)は、チェッカーズのドラム担当。
愛称の由来は、小学生の頃よく黒いジャンパーを着ていたからだとか。
元アマチュアバンド「キューティースー」のメンバーで、高校生ながら安定した演奏が注目されていました。
フミヤ、トオル、タカモクの3人に強引に勧誘されて、チェッカーズに加入したエピソードは有名です。
チェッカーズ解散後も音楽活動を続けていましたが、2004年に舌がんにより40歳の若さで亡くなりました。
チェッカーズメンバーの今は?現在の活動を紹介
チェッカーズは1992年12月にラストツアーを行い、NHK紅白歌合戦の出場を最後に解散しました。メンバーたちは、現在どのような活動をしているのでしょうか。
続いては、チェッカーズメンバーの今の活動について紹介します。
藤井郁弥(ふじい ふみや)
解散後は名前を「藤井フミヤ」に改め、ソロ活動を開始。「TRUE LOVE」「Another Orion」などのヒット曲を出す一方、他のアーティストへの楽曲提供など、積極的に音楽活動を続けています。
FUMIYART(フミヤート)の名でCG画を制作して個展を開いたり、出身地の福岡や日本への愛を楽曲やパフォーマンスで発信したりと活躍中。
2025年にはライブツアー「FUTATABI」で、全都道府県でライブを行います。
武内享(たけうち とおる)
チェッカーズ解散後は、武田真治やCHEMISTRYのサポートなど、プロデュースの分野に進出しました。ユウジ、ナオユキ、クロベエと共に結成したバンド「アブラーズ」などで、ギタリストとして現在も音楽活動を続けています。
1988年頃から伸ばし始めた髪がトレードマークで、現在は肩くらいの長さ。
プライベートでは1992年に一般女性と結婚しましたが、2015年に離婚し、その後再婚したようです。
高杢禎彦(たかもく よしひこ)
チェッカーズ時代から、俳優としてテレビドラマなどに出演し、解散後も映画「ごろつき2」では凶悪犯を演じました。また、作家としてエッセイ「チェッカーズ」を執筆。
胃がんになり一時は歌を諦めた時期もありましたが、音楽プロデューサーの大内義昭と音楽ユニットTHE GUNを結成したり、闘病経験の講演をしたりしています。
1990年にレースクイーンだった女性と結婚し、現在は旅館を経営する妻をサポートしているそうです。
大土井裕二(おおどい ゆうじ)
チェッカーズ解散後は、一時音楽の世界を離れて俳優になり、テレビドラマや映画、CMなどに出演していました。その後、音楽活動を再開してバンドやソロでライブを行ったり、再結成されたアブラーズのメンバーとしても活躍したりする他、ラジオのパーソナリティーもつとめています。
2021年にはアパレルブランド「YUJI ODOI」を立ち上げ、Tシャツやデニム、雑貨など大人のデイリーアイテムを販売しています。
鶴久政治(つるく まさはる)
チェッカーズ時代からソロ活動に力を入れていて、解散後はソロで活躍中。また、他のアーティストに200曲以上の楽曲を提供しており、特にアイドルグループSTU48の「花は誰のもの?」は、44万枚のロングヒットを記録しました。
2023年には、ソロやデュエット作品のサブスクを開始。
俳優、タレントとしてドラマやバラエティ番組への出演も多いです。
1991年に一般女性と結婚したことを、ステージで発表しました。
藤井尚之(ふじい なおゆき)
チェッカーズ解散後はソロ活動を開始し、映画「教祖誕生」のサウンドトラックを制作、全国ツアーやアルバムリリースと積極的に活動しています。兄フミヤとのF-BLOOD、後藤次利、斎藤ノヴとのNon Cordsなど、他のミュージシャンとのコラボも多数。
楽曲を提供したり、俳優、タレントとしてメディア出演したりすることもあります。
アブラーズライブや、フミヤのツアー参加など、チェッカーズ元メンバーとの交流も多いです。
チェッカーズってどんなバンド?結成の経緯やデビュー曲を紹介

チェッカーズというバンド名には、どんな由来があるのでしょうか。
また、福岡出身のチェッカーズメンバーは、どのようにグループを結成したのでしょうか。
次は、チェッカーズの由来や結成から、デビューまでの経緯を紹介します。
チェッカーズの由来は?
チェッカーズというバンド名の由来は、メンバーが当時よく聴いていたバンド「Cools」「Chanels」です。バンド名を考える際に「同じようにCで始まってSで終わる名前にしよう」と考えた結果、チェッカーズ(THE CHECKERS)という名前を考えつきました。
チェックの衣装を着ていたからだと勘違いされることもありますが、実際はバンド名ができたのが先で、チェックの衣装はバンド名から考案されたものです。
チェッカーズが結成した経緯
チェッカーズの結成は1980年です。「キャロル」に影響を受けた7人は、それぞれ別のバンドで音楽活動を始めていました。
そしてフミヤとトオルが新たなバンドを結成し、メンバーチェンジを繰り返して、最終的に7人のメンバーでチェッカーズを結成したのです。
1981年にヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト九州地区大会「L-MOTION」でグランプリを受賞し、デビューの話が舞い込みました。
しかしクロベエとナオユキが高2だったため、高校卒業まで待つことになったのです。
1983年に『ギザギザハートの子守唄』でデビュー!
チェッカーズのデビューは1983年リリースの「ギザギザハートの子守唄」です。この曲はリリース当初あまりヒットしなかったものの、翌年リリースの2ndシングル「涙のリクエスト」のヒットにより、牽引される形で大ヒットしました。
1984年にはオリコン年間チャートに「ギザギザハートの子守唄」「涙のリクエスト」「星屑のステージ」がランクインするなど、人気はうなぎのぼり。
アイドル的な人気は社会現象化し、若者のファッションに影響を与えたり、主演映画が制作されたりするようになりました。
チェッカーズが解散した理由は?
チェッカーズが解散した理由は、メンバーが目指した方向性の違いによるものだと言われています。デビュー当初は、別の作曲家、作詞家に提供された楽曲を演奏していたチェッカーズですが、次第に自分たちが制作したオリジナルの曲をリリースするようになりました。
さらに各メンバーがソロ活動を始めたことにより、それぞれの方向性に差が生じたため、ソロになった方が個性を伸ばせると考えたのです。
解散後のチェッカーズは、一人ひとりに合った方向でソロ活動を行い、自分らしく成長を続けています。
チェッカーズといえばこれ!人気曲3選
チェッカーズには有名曲、ヒット曲がたくさんありますが、曲ごとに個性が強いため、どれから聴いたらいいか迷うかもしれません。最後は、チェッカーズといえばこの曲!という、おすすめの人気曲を紹介します。
ジュリアに傷心
チェッカーズ5枚目のシングルで、最大のレコード売上や配信再生回数を記録した大ヒット曲。
「傷心」と書いて「ハートブレイク」と読ませるところや、全体に漂うレトロなロックンロールのムードがチェッカーズらしいラブソングです。
タカモクの低音コーラスや、ナオユキのサックスなど、印象的なフレーズが多いのですが、クロベエの安定したドラムも大切なポイントになっています。
作詞は売野雅勇、作曲・編曲は芹澤廣明が担当しています。
夜明けのブレス
作詞は藤井郁弥、作曲は鶴久政治のロマンチックなバラードで、ウェディングソングとしても人気がある曲です。
リリースされたのは1990年で、この頃はメンバーによって楽曲を制作するようになっていました。
フミヤが結婚した頃に制作されたことから、奥さんのために書いた歌詞と言われることもありますが、本人いわく「自分達に手を差しのべてくれた全ての人達に歌っている」とか。
映画「タスマニア物語」のキャンペーンソングに起用されました。
Song for U.S.A.
1986年にリリースされたシングルで、チェッカーズの主演映画「Song for U.S.A.」の主題歌。
チェッカーズの音楽の原点、ロックンロールやドゥワップが生まれたアメリカへのノスタルジーをテーマにしたバラードで、ドラマのようなシーンが浮かんでくる曲です。
作詞を売野雅勇、作曲・編曲を芹澤廣明が担当した最後のシングル。
芹澤が「チェッカーズに提供する最後の曲はこれ」と決めていたという、思い入れが伝わる名曲です。
チェッカーズメンバーは一世を風靡した伝説のミュージシャンたち!人気曲を聴いて当時の熱を感じよう
チェッカーズは男性7人による、伝説のロックンロールバンド。1983年のデビューから大ヒットを連発し、メンバーのファッションや髪型が、若者に影響を与えるなど、アイドル的な人気で社会現象となったほどでした。
その後、メンバーによるオリジナル曲を制作してリリースするようになる一方、それぞれのメンバーがソロ活動を開始。
1992年の解散後は、メンバーが自分の目指した方面で活躍しています。
一斉を風靡したミュージシャン、チェッカーズの人気曲を聴いて、当時の熱を感じてみませんか。