話題の楽曲『トリセツ』
西野カナの『トリセツ』は映画「ヒロイン失格」の主題歌。少女漫画を原作とするこの作品は、幼馴染と結ばれるのは自分と信じて疑わなかったというほど思い込みが激しい主人公が、自分よりもヒロインに相応しくないと感じる女の子に恋人の座を奪われてしまい、幼馴染を取り戻そうと奮闘する、という話だ。
思わぬ方向へひとり歩きしていく楽曲
なぜ『トリセツ』がああいった女性像を描いているのかは、漫画のストーリーを踏まえれば分かることなのだが、それとは別に曲のみがかなりひとり歩きしている。男性verや関西人verなど様々なカバーverが作られたり、バラエティ番組などでも「男性が理解できない女性を象徴する曲」としてネタにされるほどである。
その中でも興味深いのは、発表当時ネットで話題となった「さだまさし『関白宣言』のアンサーソング説」だ。
そもそも、さだまさしは『関白宣言』から15年後、自ら『関白失脚』というアンサーソングを発表しているのをご存知だろうか。
結婚する時には強気に『関白宣言』してみたものの、現実はそううまくはいかなかった。そんな中年男性の悲哀を描くと共に、応援メッセージを送る形になっている。
時代と共に変わった価値観
今や男女の価値観も在り方も様々な点で時代が変わった。今や下手に関白宣言などすればモラハラだと一蹴されてしまう。しかし『関白宣言』も『関白失脚』も最後まで読んでいけば、不器用な日本男児のいう「本音」の中に妻と家族への愛が描かれており、単なる男尊女卑やモラハラなどではないというフォローがなされている。
これだけの愛があったならば、お父さんはもっと大事にされても良かったのでは……とも思ってしまう。
なぜ『関白宣言』の男性は失脚してしまったのか。どうすれば、失脚をせずにすんだのか。そのヒントが『トリセツ』に隠されていると考えてみると、どうなるだろうか?
かつての日本男児に足りなかったモノ
古き日本男児と言われた男性達がなぜ『関白失脚』のようになってしまう例が多かったかと考えると、ひとえにコミュニケーションの不足である。男女というのはそもそも価値観がすれ違って当然の生き物だというのに、かつての日本男児達はそれを埋める努力を怠りがちだったのだ。特に男性が理解できないというのが、次の部分。
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急に不機嫌に
なることがあります
理由を聞いても
答えないくせに
放っとくと怒ります
≪トリセツ 歌詞より抜粋≫
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たまには
旅行にも連れてって
記念日には
オシャレなディナーを
柄じゃないと言わず
カッコよくエスコートして
≪トリセツ 歌詞より抜粋≫
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実際に女性はホルモンバランスの関係上、特に理由もなく不機嫌になることは珍しくない。
理由を聞いても答えないのは、言っても仕方がないことか、どうにもならないことだったりするからだ。
だからといってただ放っておかれたら、心配してもらえないことに哀しくなる。このくだりの直後に“いつもごめんね”と謝っているのは、女性側にも自分が面倒臭いなという自覚があるからだろう。
そして、これが『トリセツ』に書かれている意味は、不機嫌を解決してほしいわけではなく、「そういうことがあるものなんだよ」という理解を求めているだけ。
男性としても、そういった現象を最初から知っているのと知らないのとでは心持ちが変わるのではないだろうか。「そういう現象がある」という理解と納得があるだけで、コミュニケーションの取り方もだいぶ変わってくるはずだ。
たまには旅行、記念日にディナー、と男性には頭が痛くなる要求かもしれないが、これはあくまで「そうしてくれたら嬉しいな」であって「絶対やれ」ではない。この女性のそういった部分は、このくだりの手前にも描かれている。
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意外と一輪の花にも
キュンとします
何でもない日の
ちょっとしたプレゼントが
効果的です
センスは大事
でも短くても下手でも
手紙が一番嬉しいものよ
≪トリセツ 歌詞より抜粋≫
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“何でもない日のプレゼント”や“センスは大事”でハードルが上がってみえるが、“短くても下手でも 手紙が一番嬉しい”とも書いている。そんな要求ばかりか……と呆れている男性達に「それは違う」と言っておきたい。
旅行もディナーも花も手紙も、全部意味合いは同じなのだ。「いつもありがとう」や「愛してる」が恥ずかしくて言えないというのなら、せめてそういった何かに託して示してほしいということなのである。
そしてきっと、こうされたいのは現代の女性だけではない。昔の三歩下がってついていったような妻たちも、感謝や愛情を夫に示されたら間違いなく嬉しかったはずなのだ。
“黙って俺についてこい”な男性には、そんなちまちましたことをする男など関白ではない……と思うかもしれない。
だが妻に感謝の気持ちを伝えることや、小さな変化に気付いて定期的に褒めてあげること、記念日を祝うなどといったことが果たして亭主としての威厳を損なうのかといえば、けっしてそうではないといえる。
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幸福は二人で
育てるもので
どちらかが 苦労して
つくろうものではないはず
≪関白宣言 歌詞より抜粋≫
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女性が家を守り、男性は外で奮闘した時代
これは『関白宣言』の一節だが、本当にそうできていたのだろうか。当時は女性がほとんど働きに出ておらず、男性が仕事をして一家を支えていた。仕事を苦労というのなら家事も育児も苦労であり、それがお互い様だという価値観が昔は現代以上に薄かったのである。
もし本当にこの歌詞のとおりに思って実行できていたならば、感謝をまめに伝えることくらいしていても全く不思議ではない。それが、おそらくできなかったからこそ『関白失脚』してしまったのだ。
『トリセツ』では、「たまには旅行でも連れていってくれなきゃ家事をサボってしまうかも」とか「記念日のディナーが無かったら浮気しちゃうかも」みたいなことは全く言っていない。
むしろ『関白宣言』で“浮気はしない(中略)…ま、ちょっと覚悟はしておけ”などというフレーズがあるが、『トリセツ』では“もしも少し古くなってきて 目移りする時は ふたりが初めて出逢ったあの日を思い出してね”とある。
先回りしての忠告だが、あくまで男性の良心に訴えかけるだけなのがいじらしさすら感じるフレーズだ。
『トリセツ』の女性は、捉えようによっては一途で尽くすタイプの奥さんになる可能性がありそうなのである。
“こんな私を選んでくれて”や“こんな私だけど”と度々自分を下げているのが見受けられ、そして極め付けには“永久保証の私だから”だ。何に対して“永久保証”なのか。これは“あなた”への愛のことだろう。
本当は彼女も、主張が得意ではないからこそ『トリセツ』という形を取ったのかもしれない。そう考えれば、不機嫌な理由を口にできないのも、手紙を貰うのが一番嬉しいのも納得できる。言葉にできないからこそ、説明書にしたのだ。読んでおいてくれたら嬉しいな、もし困った時には読んでね、という気持ちで。
現代の価値観でこそ提案された『トリセツ』という方法論は、コミュニケーション不足や価値観のすれ違いに対するトラブルシューティングだ。
もしも、こんな考え方が『関白宣言』のころにあったなら、不器用な日本の亭主でも『関白失脚』には至らなかったかもしれない。
祈焔(https://twitter.com/kien_inori)