宇多田ヒカル 再始動!
2010年夏から活動を休止していた宇多田ヒカルが、2016年春をもって音楽活動の再開を発表した。秋には8年振りとなるオリジナルアルバムの発売も発表されている。「平成の歌姫」と称されるに相応しい彼女の才能には、歌唱力と聴き手を惹き込む声のみに留まらず、音楽を作る上のその独特なセンスも当然含まれているに違いない。
『Flavor Of Life』で良かった?
2007年にリリースされたシングル曲『Flavor Of Life』は、発売前の仮タイトルが「安くておいしいミカン」だったという。切ないラブソングに対して一見ピンとこない気もするが、なぜ彼女がそんな仮タイトルを付けていたのかを考えてみよう。
彼女は幼い頃から読書家で文学作品を好んで読んでおり、それが現在の楽曲制作に影響することも多い。それと「安くておいしいミカン」という単語を聞いて浮かんだのは、梶井基次郎の「檸檬」だ。
「檸檬」の中で“檸檬”とは、語り手である“私”にとって“好きなもの”であり、同時に物語の中で“私”の気持ちを映し込んだりする象徴物として描かれている。
宇多田のいう「ミカン」とは、梶井基次郎の描いた「檸檬」のようなものだったのではないか。
実際に歌詞の中には果物や香り、そして味覚的な表現がいくつか登場している。
味覚に関する描写が登場
----------------“青いフルーツ”が熟する前の青いミカンだと考えるのは、さほどおかしなことではない。
ありがとう、と君に言われると
なんだかせつない
さようならの後も解けぬ魔法
淡くほろ苦い
The flavor of life
友達でも恋人でもない中間地点で
収穫の日を夢見てる 青いフルーツ
≪Flavor Of Life 歌詞より抜粋≫
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この時はまだ、好きな人と想いが通じ合うということを熟す、つまり“収穫の日”と喩え、それを夢見ている時点であるというわけだ。頭サビの詞の“淡くほろ苦い”も、まだ愛の実が青いさまを思わせる。
しかし、あくまで仮タイトルは「安くておいしいミカン」である。熟す前の果物をおいしいと表現するには流石に無理があるだろう。それを踏まえて先の歌詞を見てみよう。
人生の苦味
----------------果物に対して「おいしい」というとき、ある人は「甘い」という条件を挙げるかもしれない。実際ミカンに限らず、甘味を追求した品種改良は多くされている。
甘いだけの誘い文句
味っけの無いトーク
そんなものには興味をそそられない
思い通りにいかない時だって
人生捨てたもんじゃないって
≪Flavor Of Life 歌詞より抜粋≫
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しかし“甘いだけ”では“興味をそそられない”と言っているのだ。
つまり「おいしい」イコール「甘い」ではないということ。ミカンであるならば、適度な酸味や、白い内皮の苦味を感じることもあるだろう。それらを総合して「おいしいミカン」なのである。
恋愛も人生も、思い通りにいかない“苦い”ことを含めて熟すまでの期間なのだ。それを経たからこそ「おいしい」熟したミカンといえるかもしれない。
では「安い」とはどういうことか。次を見てほしい。
あの主人公が連想される
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「愛してるよ」よりも「大好き」の方が
君らしいんじゃない?
The flavor of life
≪Flavor Of Life 歌詞より抜粋≫
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忘れかけていた人の香りを 突然思い出す頃
降りつもる雪の白さをもっと 素直に喜びたいよ
ダイアモンドよりもやわらかくて
あたたかな未来 手にしたいよ
限りある時間を 君と過ごしたい
≪Flavor Of Life 歌詞より抜粋≫
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『Flavor Of Life』は「花より男子2」挿入歌として書き下ろされた曲だ。
宇多田が原作漫画のファンであったというので、それを全く無視して書いたとは考えにくい。そこで「安くておいしいミカン」とは「花より男子」の主人公の牧野つくしのことを象徴するのではないか、という仮定ができる。
「安い」ということは量産されており、なおかつ旬のものであるということ。多くの場合、ミカンの旬は冬である。こたつの上に山になって乗っているミカン。それらはおそらくとても庶民的な光景と呼べるだろう。
牧野つくしというヒロインは英徳学園というお金持ちの通う名門私立に入学するが、本人は一般中流家庭、つまり他のキャラクターに比べて庶民の出自なのだ。
しかしそんなつくしが、道明寺司という財閥の跡取り息子と出会い次第に惹かれていき、多くの困難を乗り越え結ばれる……という物語である。
“「愛してる」よりも「大好き」の方が 君らしいんじゃない?”
“ダイヤモンドよりもやわらかくて あたたかい未来 手にしたいよ”
これらの詞からは、飾らないけれど大事なもの、いとおしい相手に対しての想いが読み取れる。どんな困難にも屈しない土筆の名をつけられたヒロインのように、高価で高尚なものだけが人生にとって重要ではないことを、物語や曲を通して感じられる。
なぜ、“降り積もる雪の白さをもっと 素直に喜びたい”と書かれたのか。それはきっと、旬となる冬までにミカンという愛が熟していてほしいという願いだ。
“忘れかけていた人の香りを 突然思い出す頃”という、人恋しくなる寒い季節を思わせるフレーズのすぐあとにそれがきている。それまでに恋が熟していなければ、雪の白さもただ寒々しく映るだけだ。
雪の降る寒い日でも、安くておいしいミカンを暖かいこたつで食べることができたら、心まで温まることだろう。それというのは、ミカンが熟した、愛を手に入れたということに等しいのではないか。また、人生とは“限りある時間”だ。これからの君との未来を“一緒に過ごしたい”という、まさに温かみを感じるラブソングになっている。
これらを受けて冒頭と同じ詞のサビが最後にやってくると、“ありがとう”と言われたあとのせつなさも、“さようならの後も解けぬ魔法”がどんなふうに“淡くほろ苦い”のかも、ミカンが熟す前とは受け取り方が変わってくることだろう。
梶井基次郎の「檸檬」の中で、以前より重苦しく感じるようになってしまった“私”の世界を、ひとつの「レモン」が変えてゆく。憂鬱な心をすうっと軽くしてくれたり、時には鬱屈とした暗い場所を破壊する爆弾だと想像したりして、その鮮やかな色が世界を明るくしたりするのだ。
タイトルが深みを与える
「安くておいしいミカン」は一見、ラブソングには不似合いなタイトルに聞こえる。しかしそれがあるあたたかな風景を想像したり、安くておいしいミカンとして熟していくまでの時間を恋愛に喩えたと考えると、途端にこのタイトルが深みを増してゆく。檸檬にしろミカンにしろ象徴に過ぎないのだが、あえてミカンにすることによって冬の匂いもしてくるというわけだ。そして安くておいしい、に庶民らしさや好意を含めている。
文学的素養を持つ宇多田ならば、そんなふうに生活の匂いと作品世界を重ねて感じられた可能性はある。気付けば身近にあって、心を満たしてくれるもの。『Flavor』とは「安くておいしいミカン」の香りだったのだ。
だが、この曲は『Flavor Of Life』として完成した。あえて果物の名前も歌詞の中で限定していない。
それぞれにとっての『Flavor Of Life』を見つけて、感じてほしいという意味も込めて、このタイトルになったのではないだろうか。
天才的な才能を持つ歌姫でありながら、庶民感覚や大衆性も同時に持ち合わせる。
宇多田ヒカルの活動に、今後も目が離せない。
TEXT:祈焔( https://twitter.com/kien_inori )