その10年間は彼に十分すぎるほどの経験を与えた。ステージでの落ち着いた振る舞いも、ハコバン時代に培ったものだ。
誰もが知るアーティスト 稲垣潤一
ドラムを叩きながらクールに歌うその姿は新鮮で艶美である。歌詞は日本語のはずなのに、本場のR&Bのグルーヴを併せ持っている。リズムに対するアプローチは、容易には真似ができない。そう、彼は正真正銘の音楽のプロフェッショナルなのだ。
そんな彼の代名詞といっても過言ではない「クリスマスキャロルの頃には」を聴くと、季節の趣を感じられる。
季節を感じられる定番の楽曲というのは、アーティストの元を離れ人々の曲となる。実際に稲垣潤一のライブに「クリスマスキャロルの頃には」のみを求めて来場する人もいるのだ。
同曲はお客さんにとっては新鮮でも、稲垣潤一にしてみれば何百回と歌ってきた楽曲だ。
最初の頃のように新鮮に歌えなくなった時期があり、彼は曲に感情を込められなくなったという。その葛藤を乗り越えるため、ライブのセットリストや構成を変え、まずは自らが楽しいと思えるステージを作った。
そういった彼の工夫の原点には何があるのだろうか。
「クリスマスキャロルの頃には」の歌詞を紐解きながら見ていきたい。
今、「クリスマスキャロルの頃には」が再注目されている。
稲垣潤一の名曲「クリスマスキャロルの頃には」のサビのフレーズは原曲のままに、MONKEY MAJIKが新たな詞とメロディを書き加えてリメイクし、稲垣本人が歌唱参加、GAGLEがラップやアレンジで加わったものが公開。
コチラもぜひチェックしてほしい。
【MV】MONKEY MAJIKとコラボ!「クリスマスキャロルの頃には」
稲垣潤一 クリスマスキャロルの頃には
“クリスマスキャロルが流れる頃には
君と僕の答えも きっと出ているだろう
クリスマスキャロルが流れる頃には
誰を愛してるのか 今は見えなくても…”
感情を込めるのではなく、自然に音楽と調和する。感情を込める意識が強すぎると、しらじらさが出てくる。
だからといって、感情のない歌は歌ではない。長年のキャリアは、演技と自然体の交差点を稲垣潤一に与えた。
彼は音楽に溶け入る感覚を身につけた。この感覚がリスナーの心地よさに繋がっているのだ。
何度聞いても「クリスマスキャロルの頃には」の歌詞がじんわりと心に沁みるのはそのためだ。
“この手を少し伸ばせば 届いてたのに
1mm何か足りない 愛のすれ違い
お互いを わかりすぎていて
心がよそ見 できないのさ”
彼はライブであろうと決して崩した歌い方をしない。
崩した歌い方はリスナーを喜ばせることもあり、また落胆させることもある。
それは、ある意味では賭けでありアーティストのエゴなのかもしれない。
稲垣潤一はなぜ崩した歌い方をしないかというと、彼は決してリスナー目線を忘れていないからだ。
どれだけ経験を積もうと傲慢にならず、むしろリスナーの心情を深く考え音楽に取り組んでいる。
彼のそのこだわりは広い視野を持ったものにしか持ち得ないはずだ。
“誰かがそばにいるのは暖かいけれど
背中を毛布代わりに 抱き合えないから
近すぎて 見えない支えは
離れてみれば わかるらしい”
35年という長いキャリアを持つ稲垣潤一。
その年月で歌う際の心構えを会得したが、今の彼にジレンマが全くないわけではない。
35年間で培ったスキルが逆に新鮮さの喪失に繋がっているという。
「いい歌になるかどうか」が基準
巧みな技術を使って歌えるかではなく「いい歌になるかどうか」を基準としているため、彼は悩むのだ。いつまでもリスナーに自己満足ではない「いい歌」を届けたい気持ちが強い。稲垣潤一は一般的にクールなイメージを持たれるが、そのスタイルにたどり着くまでに多くの経験と苦労を共にした。
クールではあるが決して弱々しいものではなく、立派な鉄塔のように強固で、安心感をも与えてくれる歌声をリスナーに届けている。
TEXT 笹谷創