“これだけ”がもたらす贅沢「Turn Up」
単調なリズムと無表情ともいえる冷めたボーカル。このままでいいわけがないと、デコレーションとなる別メロを上乗せしたくなるところ、赤西仁は“これだけ”をやめる気はない。
そこには攻め切るという戦略はおろか、“あえてやった感”すらない。
この無気力状態のおかげで、中盤から後半にかけて流れるピアノ音は、かなり光った仕事をしている。
欠点のない平凡に綺麗な音は、それまでのジーパンTシャツの粗削りなドライ感を一変させ、アシッドジャズ的な、この上ないラグジュアリーな方向にシフトチェンジする。音楽的煩悩に打ち勝った赤西仁の姿が眩しい一品だ。
凡庸の中の複雑な設計「On My Mind」
手前の「Candy Flava Girl」からポーズなしで始まることで、その続き的なドラマ性に欠ける曲のように扱われている。が、このメロディーを追ってみると、実に音の高低差の激しい、またリズムのシフトチェンジが頻繁にある極めて複雑な構造であることが分かる。
平凡な一日と思うのはその外部にいる者だけで、陽の光は様々に変化し、風はあらゆるものにぶつかって方向転換している。
凡庸なうたーその水面下で、赤西仁の緻密で妥協なき音の設計は確かに繰り広げられているのだ。
到達した先にある崩しがたい癒しが、心地よい。
丁度いい現実感が美しい「Perfect」
この曲がもともと前衛的で、コンテンポラリーなものだったのか。それとも、できた時からいい感じの今っぽさを放つこの音だったのか想像はできない。ただ言えることは、彼は自分の見えるところにしか音を置いていないということだ。
もし視界の外にまで好きなだけ音を配置していたら、それはサバンナに立つおしゃれなカフェのごときミュージシャンのロマンに凝り固まった音楽にしかならない。
この「Perfect」は確かに土の臭いのしないアフリカ音楽と言えるのだが、そこにあるのはAIが歌い踊る仮想現実ではない。
人間が狩猟をし,子を創り育てる,生々しい現実世界である。
赤西仁にとって音楽は何かを伝えるツールではなく、“生そのもの”だと訴えている作品だ。
聴覚を回帰させる見えない技
変化するリズムを操縦した「Be Alright」
入りは鋭さのない鈍角的なリズム。それは次第に箔数が増え、小刻みに変化。
後半はそこに力強さと乱拍子的ずれが生まれ、祭囃子のような泥臭さが加わる。
このリズムの変化にボーカルがついていけないと、ドラマーのいい仕事が目立つ。
赤西仁はリズムについていくどころか、ドラマーのパフォーマンス1つ1つを完全にマネジメントしている。
そのため、この曲は音楽的付加価値をリスナーに一切感じさせず、“通勤前のコーヒーが似合う曲”に収まっているのだ。
それまでの概念はそのままで、聴覚だけが初期化される作品だ。
脳に留まる感動「Runnin’」
このアルバムのなかで、芸術的領域への到達を感じさせる傑作だ。しかし、それを声に出して「すばらしい」と言えないところが、この曲の本当の味なのだ。
もし、サビの「Runnin’ runnin’ runnin’ runnin’ ,yeah・・・」にエフェクトをかけずに自然な声でいっていたら。
もし、サビ以外は歌ではなく、ラップだったら・・・
つまりこの作品にはもう一つの道もあったのではないかと、リスナーに考えさせる隙間が潜んでいる。
が、それはリスナーを攪乱し、聴くことの集中力を奪うものではない。
この曲がもたらす考え、映し出す情景を認識することで、この曲のすばらしさは、わざわざ口に出して言わなくてもいいものになるのだ。
“思う”というアクションに留まらせる力も、ある意味音楽の持つ力なのだと、思い知る作品だ。
言うまでもないが、このアルバムは未だライブという形では披露されてはいない。
が、CDという商品のまま、ある意味冷凍保存された状態でいることも、この『THANK YOU』にとっては一つの理想の姿なのかもしれない。
TEXT 平田悦子