「もしも」の世界
『打上花火』は、映画「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」の主題歌に起用されたことでも注目を浴びた。「もしもあの時……」ということは、人生の中で誰しも経験すること。
そんな「もしも」を軸にした一夏の物語に寄り添うように、『打上花火』には「もしも」な未来が描かれている。
物語は回想から始まる。「渚」という夏を象徴する言葉で、遠い夏の日、愛しい人と過ごした時間が甦るのだ。
砂の上に好きな人の名前を書いたり、未来を誓ったり。海というのはロマンチックで、恋する人の背中をそっと押してくれる場所でもある。
しかし、そんな未来を描いた相手は、今はいない。寄せては返す波に足元をさらわれそうになるあの感覚は、「何かを覆う」「日暮れだけが通り過ぎて行く」というフレーズによって、どこか不安定で危うさを予感させるのだ。
そして、二人の夏がいつまでも続かなかったことを暗示している。
見つめたのは、一瞬の光
「パッと光って咲いた」というフレーズとメロディーが、一度耳にすると離れないのは、さすが米津玄師だ。
聴く人の心に残り、記憶に刻まれるメロディーを作り出すことで、何年経っても忘れられない曲になる。
一瞬光ってすぐに消えてしまう儚い花火だが、儚いからこそ一瞬の輝きが永遠に心に焼き付く。
夏の夜に抱いた「君」への思いは、時を経ても色あせることはないのだ。
「曖昧な心を解かして繋いだ」という表現も、その感情を恋と呼べるのか分からないほどに曖昧な心を、見事に言い得ている。
花火を二人で見た瞬間、曖昧な気持ちが恋しさに変わる。
はっきりと見えてきた気持ちに戸惑いながら、この幸せな時間がずっと続きますようにと祈るのだ。
しかし、花火がパッと咲いてすぐ散ってしまうように、その恋はいつまでも続かない。ほんの一瞬見えた、短い夢に過ぎないのだ。
叶わない夢
愛しい人の隣に立って花火を眺める。それは何よりも幸せな時間だ。
しかし、幸せなこの時間がいつまで続くかは、誰も知らない。
だからこそ、小さなことに一喜一憂し、焦り、今という時間が愛おしく感じるのだ。
届きそうで、届かない
消えてしまいそうな儚さを持った花火の輝きと、いつ失うかもしれない大切な人。
すぐそばにいられる幸福と不安の狭間で揺れる心は、誰の心にもあるものだ。
だからこそ、どことなく切なく、どこか終わりを感じさせる歌詞が、聴く人の胸に刺さる。
花火と人の心という、儚く、つかみ所のないものを、見事にマッチさせるセンスはさすがである。
花火大会のあと、かすかに残る花火の香りや余韻に、いつまでも浸っていたくなる。
進み行く時間の中で、もう少しだけ一緒にいたいと願う恋人たちの気持ちも同じだ。
「もう少し」という願いが、ワガママが、いつまで叶うのか。どこまで届くのか。誰にも分からないけれど、誰もが理解できる、普遍的なテーマといえるだろう。
作中では、なずなは自ら姿を消してしまう。駆け落ちまで考えたのに思いとどまり、結局は自分の思いを諦めてしまうのだ。
そんな彼女だから、どこか儚さが漂っている。
明日、いや、次の瞬間にでも消えて無くなってしまいそうな彼女の、不安定でつかみ所のない存在感を、夏と花火で見事に表現した米津玄師には、感服せざるを得ない。
叶わない「もしも」という願い
「この夜が続いて欲しかった」というフレーズはまさに、なずなを手放したくなかった典道の気持ちだ。
それは同時に、続いて欲しいと願ったものの叶わなかったことをも暗示している。
なずなが結局は駆け落ちをやめてしまうこと、典道の元から去ってしまうという、苦い体験へと繋がっていくのだ。
「もう少しだけ このままで」という儚い思いは、花火のように美しく輝いたあと、跡形もなく消え去ってゆく。
夏の夜空に大輪の花火。その艶やかな様は多くの人を惹きつけるが、花火はすぐに消えてしまう儚さの象徴でもあるのだ。
「もしも、あの時」という思いが物語を紡いでいく「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」。
『打上花火』は作品世界の美しさ、儚さ、典道やなずなの思いを見事に表現した、新たな夏の名曲といえる。
TEXT 岡野ケイ