自分自身への期待という「呪い」を解く歌
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ねえ二度と泣かないように 君を脅す君にとどめを刺して
僕と逃げよう 地の果てまで 追っ手は暗闇 明日無き逃亡
≪とどめを刺して 歌詞より抜粋≫
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楽曲の一番は「君」という人物が、自分自身に失望し否定している姿が描かれています。
Youtubeにアップロードされている同楽曲のMVでは、ノートにひたすら「私は私の○○ではない」と書き殴っている人物が登場しています。
映像と歌詞から考えると、この楽曲は「他人から期待された自分の、ありのままではない姿」を否定しているという印象を受けます。
サビは「君を脅す君にとどめを刺して」と、自分で自分の首を締めることに対する反感を歌っています。
そしてMVでは SNSによるいいねの数やハッシュタグを否定して、ツイッターやフェイスブックのアカウントを次々と削除していく人物の様子が映し出されており、これは、他人からの承認欲求で溢れて自分自身を見失うことから逃れようとする意思を感じることができます。
「追っ手は暗闇 明日なき逃亡」というのは、これまでの自分自身をかたどっている過去を捨て、たとえ明日がどうなるか分からなくなるとしても、自分自身を否定してはいけないということを示していると捉えられます。
「自分を愛し、分かってあげられるのは自分だけ」というメッセージ
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「誰にだって辛いことはある」 そういうのは自分にだけ言って
君の辛さを平凡にしたがる 人の無自覚が誰かの辛さになる
≪とどめを刺して 歌詞より抜粋≫
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2番は「誰にだって辛いことはある」と他人の温かいようで冷たい言葉を取り上げています。
分かったような口を利く他人に対する怒りを「君の辛さを平凡にしたがる」という言葉で表現しています。
人間の辛いという気持ちは、実際はその人自身にしか理解することはできません。
それをひとくくりに「誰にだって」と言うのは、ひどく傲慢ではないでしょうか?
その言葉自体に悪意は無いけれど、そういった傲慢な言葉を無自覚に放ってしまうことこそが、誰かを傷つけて怒りや悲しみ、辛さを生んでしまっているという意味に読み取ることができます。
たとえ変われずに死んでしまっても、変わりたいなら努力はするべき
楽曲の最期は「結末」「曲がりきれぬ」「最期」と突然の死で締めくくられます。
しかしそこに涙はなく、笑顔を浮かべます。何故でしょうか?
これは他人からの評価や価値観を押し付けられないよう拒否して、自分らしさを取り戻した結果だと考えることができます。
ボーカル兼作詞者の秋田ひろむは、インタビューで「僕は拒絶するけど、あなたもそうしたら?っていう共犯関係を築くイメージです」と楽曲の立ち位置を示しています。
自分らしく生きることによって、責任や不幸が降りかかってくるということでしょう。
けれども、それを覚悟した上で、それでも死ぬ前には笑っていられるように自分を肯定できるような自分になりたい、という思いがここに込められていると感じることができます。
そのことを示すように、MVの映像では「私は誰かの私ではない」「私の夢は誰かの夢ではない」といった殴り書きが映し出されます。
TEXT 空野カケル
青森県在住の秋田ひろむを中心としたバンド。 日常に降りかかる悲しみや苦しみを雨に例え、僕らは雨曝だが「それでも」というところから名づけられたこのバンドは、「アンチニヒリズム」をコンセプトに掲げ、絶望の中から希望を見出す辛辣な詩世界を持ち、ライブではステージ前にスクリーンが張···