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【インタビュー】御徒町凧「『最悪な春』は直太朗が歌うことで希望の歌になった」

詩人・御徒町凧が森山直太朗と曲を作り続けて20年以上経つ。今春発売された『さくら(二〇二〇合唱)/最悪な春』でも2人の楽曲を聴くことができるが、ここにいたるまでには、想像以上の紆余曲折があった。

「こういう人が歌手をやるのかな」

──改めて御徒町さんと森山直太朗さんの歴史を振り返りたいのですが、もともとお2人は高校のサッカー部で先輩後輩、という関係からスタートしたのですよね?


御徒町凧:そうです。僕が高1の時にサッカー部で出会い、直太朗は一個上の先輩でした。フィーリングが合ったので、よく帰り道とか一緒になって。当時、僕は自分自身でバンドをやっていて、“お前、音楽やっているんでしょう?”と直太朗も少なからず興味を持ってくれたのか、よく彼の家に遊びに行くようになったんです。

そうしたら家にマーチンのヴィンテージギターが置いてあったり、ちょっとしたスタジオがあったりして。“なんじゃこりゃ?”と思って“どういうこと?”と聞いたら、“うち、親が歌手をやっているんだ”と教えてもらった、という感じでしたね。


──それまで御徒町さんは、直太朗さんのバックグラウンドは知らなかったのですか?

御徒町凧:知らなかったです。だからただ気の合う1つ上の先輩として、家に出入りするようになったんです。


──直太朗さんは御徒町さんがバンドをやっていた点にも興味を持たれたんですね。

御徒町凧:たぶん直太朗自身も音楽に対しての興味は当然あって。でも自分の親が歌手をやっているということもあり、性格的なことも起因して、本当に密かに思って誰にも言っていなかったと思います。それで一個下の後輩で野放図な奴がやってきて、“俺、音楽をやりたいんだ”みたいに言っているのが、たぶんある種の刺激になったんじゃないかと。彼の家に行くようになり、どちらからともなくギターを弾いて。“すごい弾けるじゃん”と思って弾き語りとか聴かせてもらったら、当時から明らかに上手かったんですよ。“こういう人が歌手をやるのかな”とほんのり思いました。

でも本人は別にその時も“歌手になる”みたいな意識はまったくなくて。どちらかというと、僕がやりたいことにアドバイスをくれたりしていたんだけれど、きっかけがあって2人で曲作りをすることになったんです。本当に遊びの延長だったんですけれど、ジャカジャカ曲作りをやって。自分たちのものができる感覚は、やはり純粋にうれしいじゃないですか。それがただ楽しくて、いろいろな曲を作っていった、という感じですね。当初は駅前の路上とかに行って、二人で歌ったりもしていたんですよ。でも20代前半の時は、僕はバンドをやって、彼は一人で歌って、というように大きくシフトしていったんです。


──職業としてやっていこうと決めたのは、どういうきっかけだったのでしょうか?


御徒町凧:大きな決断をした、という記憶はなくて。ただやれることを必死にやった先に、たまたま仕事になっていった、という感じですね。上京するといったような契機でもあれば、もう少し違ったのかもしれないですけれど。ただ“やりたくないことをしたくない”という意識は昔からすごくあった。それは直太朗の家で(森山)良子さんと当時のプロデューサーさんのやりとりを見ていて、“大きな視野で見ると、2人の話は自分たちがやっていることの延長線上だ。こういったことを生涯の仕事にしていける道があるのだとしたら、本気でやらない手はないな”と感じた記憶はあります。

僕は最低限の気遣いはしますけれど、思ってもないようなことをするのはすごく嫌で。実家から学校に通う時に、毎日、満員の千代田線に乗っていたので、その時はあまり世の中のことも知らないから、“いつしか自分も満員電車に押しつぶされながら、世の中に出ていくのかな”という、そこはかとない恐怖があって。でも何かできるわけでもなかったから、10代のころはなんとなくレールのまま行った時に、引き返せなくなるんじゃないか、という気配はすごく感じていました。


──それにならないためには、こういうふうな生き方があるんだと、ある意味、ロールモデルがいたから決断できたのですね。

御徒町凧:ただし反面的な動機というよりも、やはり楽しいからやる、という方が強かったかな。こんな楽しいことに時間を費やせるなら、と。よく言われることですけれど、人生は分からないことばかりだけど、いつか死ぬことだけは分かってるじゃないですか。

昔「死ぬことだけが明らかだ」という、1行の詩を書いたことがあるんですけど。元々人生に対して暇つぶし感があって。“どうせ暇つぶしなのであれば、楽しいに越したことはない”というのも、大前提であった。だから周りに忖度せずに、この面白いことの競争みたいなことで駆け抜けていけば、それなりに生きていけるのかな、という感じはありました。


──一緒にやっていくことに関して、直太朗さんはどんな感じだったのでしょうか?

御徒町凧:当初は結構、僕が引っ張り出しましたね。直太朗はとても疑い深かったから。“そんな歌が上手いんだから”と言っても、人前で歌ったりしないし。でも“せっかく曲ができたんだから、もっと冒険しようよ”といって路上に駆り出して、駅前で一緒に歌うようになったんです。直太朗は当初、すごく芯が強いんだけれど、アクションに関してはとても受け身な人だった、という感じはありますね。


──お2人の性格は反対?

御徒町凧:反対だと思いますよ。もちろん長いこと一緒にいるから、もはやお互いにすごく影響し合って似ている部分もたくさんあると思うけれども。当時はそういう役割が真逆でした。


一緒に曲作りをしたら、筆が鳴った

──御徒町さんが本格的に作詞家として入られるのはメジャーアルバム『乾いた唄は魚の餌にちょうどいい』からで、作曲での共作は7thシングル『時の行方〜序・春の空〜』以降ということでしたが、最初は詞の方からだったのはなぜでしょうか?


御徒町凧:頓着の加減でいうと、メロディや曲想に頓着が強いのが直太朗で、そのテーマや言葉の並びに頓着が強いのが僕だったから、大きくはそこで住み分けがなされていた感じです。さらに自分がバンドを始めた時も、もともと詩を書いていたんですよ。詩を書いて、いつも何かわーっと歌いながら登下校していたら、同級生に“今度うちのバンドで歌ってくれない? お前、好きそうじゃん?”と呼ばれて。“えーっ”とは思ったんだけれど、行ってみたら面白くて。

自分で詩みたいなものを書いていたから、“どうせならオリジナルをやろうよ”と言って。それで自分の書いていた詩が、歌にも汎用できるな、というのはその時に経験的にわかった感じですね。


──数カ月前に発表されたヤフーのインタビュー(詩人・御徒町凧が語る、コロナ禍の森山直太朗と「さくら」 “最悪な春”に生まれた希望 <前編>(田中久勝) - 個人 - Yahoo!ニュース)で、御徒町さんが直太朗さんについて「本人もよく言っていますが、歌詞にあまりこだわりが強くなくて、“響き”を重要視しているタイプです。逆に僕はそこに対して疑問を持っていて『歌声なんてすぐ飽きるって』と言ってしまって、言い合いになったこともあります(笑)」とおっしゃっていましたよね。それがとても印象に残っていて。なぜ当時「歌声は飽きる」と思ったのでしょうか?

御徒町凧:知らない歌手の歌を初めて聴いた時に、やはり歌が上手いか下手かとフィルターをかけるじゃないですか。あのインタビューではデフォルトという言い方をしたけれど、“歌が上手い人”だという驚きの部分は、そのうちなくなるでしょう、と。恋愛も似ているけれど、すごく綺麗な人と付き合って最初はドキドキしてたけれど、ずっと一緒にいたら、その綺麗がデフォルトになって粗が見えてきたりする。その感じに似ているのかな。人間はどんなものにでも慣れるから。

結局歌声はその人の持ち物であり、変わらないじゃないですか。だからその歌手が同じようなことをずっと歌っていても、何の刺激もなくなっていく。でもその点、考えている思想やポエジー、音楽のテーマといったものは、人間の成熟度とか、その人の人生の段階によって変わっていく。自分自身も音楽を聴く時は、そういうふうに聴いていたんですよ。“このアーティストが好きだな”というのは、まず肌触りからで。その後、本当に追っかけたり、より好きになったりするかどうかは、そのアーティストの人間性や思想だったから。

たぶんそんな話をしたんですよね。でも当時はボキャブラリーがなくて、たぶん「歌声なんて、すぐ飽きるよ」というようなことを直太朗に言ったんです。でも直太朗は森山良子さんの息子であり、家に玉置浩二さんたちが出入りして、歌声というものが、どれだけ味わい深いものなのかを昔から感じていて。それを実践しようと思うタイプの人だから、おそらく“こいつは何を言っているんだ?”と思ったでしょうね。


──すると、当時はその部分の話はかみ合わなかった。


御徒町凧:かみ合わなかったです。ケンカにこそならなかったけれど、折り合いはつかなかった。


──でも詞の部分で共作することによって、そのアーティストとしての進化みたいなものを見て行きたい、と思われたのですか?

御徒町凧:そうです。原体験として覚えているのは、自分も歌を歌っていたんだけれど、僕は上手くなくて。“こういうものを表現したい”ということに対して、自分の歌声がまったく追いつかないんですよ。それでひょんなことから直太朗と曲を作り始めたら、“そうそう、そういう感じ”。“え? だったら、もっとこういうことも表現できるかも”と感じて、「筆が鳴る」というか。歌うとか表現するということに対しての現実をあまり考えずに、もっともっと、という気持ちになれるんだな、と感じたんです。

具体的にぱっと思い出せるのは、『生きとし生ける物へ』(2004年3月リリースの森山直太朗5枚目のシングル)という曲があって、「何処も彼処も言うなれば極楽と」というフレーズがあるんです。僕はそれまで「極楽」という言葉をあまり歌詞で聴いたことはなくて。「極める、楽しい」と書いて、言葉の意味としては、すごく強いじゃないですか。どこかで聴いたことがあるとすれば、温泉に入って、ちょっと軽い意味合いで“あー、極楽、極楽”みたいな。でも本当の言葉の強さと、実際に使われているそのギャップみたいのがあって、この歌詞の世界観の中で、「極楽」は使えるんじゃないか、と思ったんですよね。「何処も彼処も言うなれば極楽と」なんて一行は、相当エッジの効いたフレーズなんだけれど、直太朗は歌としてたやすく返してきた記憶があって“すごいな”と思いました。

その時は“さすがに言葉が立ちすぎちゃうかな”と思ったんだけれど、ちゃんと詞のイメージに近く歌われたから。本人の中でどういう運動がなされているのか深追いはしなかったけれど。そういったことがありました。あと曲にしようと思ってないけど『うんこ』という曲も、やっぱりあれを歌にして表現としてまとめるのは、下手くそではできないと思うんですよ。だって面白ソングになってしまいますからね。でもあれは面白ソングではなくて詩であり詞だから。そういうことはあまり直太朗本人には言わないけれど、どこかですごく感謝はしていますね。



──「極楽」という言葉が自然に入っていたから、詞に入っていたことすらも、リスナーとしては意識からは抜けていたかもしれません。

御徒町凧:それが理想なんですよね。考えさせたくないから。考えてしまうと、曲想には至らないでしょう? でも音楽として聴いた時に、その音や言葉の文字組みの向こうに景色があって。ざっくりいうと、そこに誘いたいから。そういう意味で、歌手というのはすごい役割の仕事だな、と思って。自分には到底できないから、直太朗と深いパートナーシップでやってこれた。

以前、作詞家の松井五郎さんにそのことを言われたことがあって。松井さんは玉置さんやASKAさんといった、そうそうたるアーティストの歌詞を書いていらっしゃいます。でも「御徒町くんがすごく恵まれてるのは、一人のアーティストと今日の今日までずっと向き合って切磋琢磨できていることだ。それは君の歌詞にとっても、すごく良いことだと思うよ」と言われたんですよね。


──そういう経験をした人は少ない気がします。

御徒町凧:あまりいないですよね。


──でもこの20年で、“他のアーティストともやってみたい”と考えたことはあったのでしょうか?


御徒町凧:基本的にはないんです。さっきの10代の頃の話にも立ち返るんだけれど、あまり人に気を遣いたくないんですね。だから知らない人とやると、どこかで気遣いをするし。それ自体がつまらないとは思わないんだけれど、根っこには、“友だちと遊んでいたい”という感覚が強いから。知らない人と友だちになるのって、結構、難儀じゃないですか。


──それは大人になればなるほど、面倒に感じます。

御徒町凧:そう。だから別に今からやらなくても、と。でも最近ハナレグミと家が近くて、友だちみたいな感じで遊んだりしているんです。そうすると不思議と、こないだも自粛中にぼーっとしていたら、ハナレグミの曲が二つぐらい浮かんで。

実は昨年末のギタージャンボリー(『J-WAVE TOKYO GUITAR JAMBOREE 2020 RETURNS supported by奥村組』でハナレグミと直太朗が『どこもかしこも駐車場』(2013年12月リリースの7thアルバム『自由の限界』収録)という曲をやって、年明けに“それにしてもあの曲すごいね。ずっと頭から離れない”というメールが来て。“じゃあ、ああいった呪術的な曲を作ろうよ”となったんです。なぜかまだ形にできてないんだけれど、今、二つぐらいハナレグミが歌ったら面白いな、と思うテーマがあるんです。

今、Instagramとかで情報をあげてシェアするじゃないですか。ハナレグミは自分が歌ってる時に写真を撮られるのとか、基本的に好きではないと言っていたんです。僕もそれは根本的に思っていて。以前、佐内さん(佐内正史(写真家))と『Summer of the DEAD』という写真集詩集作ったんですけど、彼と“詩も写真も『いいね』されないものにしようぜ”と決めたんですよ。“僕らは『いいね』と言われたら最後だよね”と思っていて。それは共感されたくないとか閉じこもってるわけではなくて、InstagramとかTwitterとかで「いいね」で済ませてしまい、思考をやめてしまった人たちは、ゾンビみたいなものだと思っているんです。このゾンビ化が進んでいる世の中に、どうやってものづくりという光の剣で、皆に“もっと生きようよ。やばいよ。このままだと、みんな食われちゃうよ”と伝えられるか、と考えたんですよ。

ハナレグミは歌手だしポップな人だから、僕のそういうこととまるっきり合致するわけではないと思うんだけれど、そこにあるあの人の意地がハナレグミの響きになっていると僕は見届けていて。彼は歌手として本当にすごくて。でもそういう大事にしてるものを守り続けている先に、その人にしかない表現とか響きが現れると思うんです。


──今は交流が広がっている、という状況なんですね。

御徒町凧:かといって積極的に友だちを増やそうとか、営業をかけようというモチベーションは、悲しいかな、やっぱりなくて。そのことはすごく考えるんだけれど。たとえば有名になったりすることは、今の世の中にとって、単純にマイナスのことの方が多い感じを個人的には受けていて。

でも市場を広げるというのはまた別で、大事なことだと思っているから。ただ、どこかで直太朗に甘えすぎていた部分もあるな、と思います。それは直太朗からも言われるんですよ。“もっとプロモーションや活動をちゃんとやれよ”と。最近は直太朗が僕にすごく厳しくて(笑)。


──そうなんですね(笑)。

御徒町凧:“甘やかしすぎた”と最近すごく言われます。


自分たちの関係性をつないだ曲

──となると、今のお2人の関係は?


御徒町凧:イーブンになった感じかな。ただそれは時代ごとにそれぞれの厳しさで向き合っていただけで。でも前回のツアー(「森山直太朗 コンサートツアー2018~19『人間の森』」)を通じて僕もまさにあの本(『Summer of the DEAD』)を作った時なんですけれど、すごくものを作ることに対して厳しかったんですよね。これは今も変わらないけれど、本当に命がけだなって。そんな折に直太朗とツアーやイベントをやっていた時に、直太朗が軽いと感じて。俺は“もうやれないよ”と何度か言ったし、舞台上でも“どうしてできないんだ”ということを、それはスタッフ全員に対しても常に問い続けたんです。

それで直太朗は、“長いことパートナーみたいな感じで活動しているから、お前の言っていることは分かるし、このポイントに関しての純度は分かるけれど、そういうふうに座組がなってないよね。だって俺たちチームじゃん? 『やらないよ』なんて、どういうこと?”と言っていて。

だからちょっといびつだったんですよ。直太朗に言われて振り返ってみたら、知らず知らずのうちに俺もすごい依存していたな、みたいなことも多々あったし。だから、今、少し視野を広げて。去年は瑛人(シンガーソングライター)がうちの事務所に来たりして、俺も去年は直太朗以外の仕事をやって、何か違う刺激を環境の中で持つようになりました。20年の時を経て、おのずと関係も変わっていくという、まさにさなかという感じですね。


──「森山直太朗 コンサートツアー2018~19『人間の森』」のころ、御徒町さんと直太朗さんの間で、長らく続いた関係に一区切りがついた、ということをインタビューで拝見し、衝撃を受けましたが、まさにそのころのお話ですよね。

御徒町凧:そうですね。最近、改めて直太朗に“お前とはものづくりだけしていたい”と言われるの。“曲を作ったり舞台を作ったり、ただその無邪気に楽しんでた頃のことは、やっぱり紛れもないと思う”と。でも今、いざ組織としてやってる時に、パワーバランスが崩れちゃうんですよね。

これは僕の中でなんですけれど、音楽をやったり舞台を作ったりというものづくりは、大げさな話なんですけど、背徳的だと思っていて。だってこの世の中に、人間が生きていくために、いらないから。その昔で言うと神様に捧げるとか、社会性からはどこか逸脱してるというか。やっぱり目に見えないものと常に向き合ってるから、音楽をやりたいとか詩を書きたいと言ってる人は、社会の中で仕事をしている人とは、厳しさへの向き合い方がやはり少し違うんですよ。“やらせていただいている”という感覚もあるし。

だからこそ、ものを作る人間はどこかで本当に厳しくなければ、まがい物になってしまう。それは自分ができているかどうかは別として、せめて志す者としてそう思います。でもひとたび組織みたいなことをやると、舞台を作るような情熱だけでは、人と向き合えない。そうなると全く望んでないのに、人をすごく追い込んでしまったりするようなことがあって。それは多分、今後自分の人生で、もう少ししっかりと住み分けしていかないと、ただの人騒がせになってしまうのかな、とも思ったんです。


──去年『最悪な春』をお2人で作られたときは、それからだいぶ状況も変わっていたんでしょうか?

御徒町凧:僕はそこまで自覚は無かったけれど、直太朗が言っていたのは、その時、関係性としてはある種終わっていたんですよ。たまに会って話したりはするけれど、直太朗は僕に対してどこか完全に心を閉ざしていたし。でも僕はそんなに気にしてもなくて、当時は“季節のものかな”ぐらいの感じで捉えていた様な気がします。

それである意味、緊急事態宣言を謳歌していた。そうしたら、本当にあの曲(『最悪な春』)が4月か5月ぐらいにフッと書けたんですよね。“これって、もう音楽になりそうだな”と思ったから、変わらず直太朗に渡したの。あいつからしたら、“もう別にお前とは”と思ったんだろうけれど、いつものように曲を渡されて、やっぱりここには嘘がなかったというか。“あれを見て曲ができた”んだって。だから結構、『最悪な春』は、そういう意味では……。


──最悪な状態だった中で生まれた?

御徒町凧:まあまあ(笑)。自分たちの関係性を、可能性も含めてつないだ曲だな、と思う。あれが書けてなかったら、本当に直太朗が言っていたような決別みたいなことになっていただろうし。まあ、それがいいのか悪いのかは分からない。『最悪な春』のせいで関係性が戻ってしまって、またお互いに足をひっぱり合うことになる可能性だってある訳だし。

でも、つないだ曲なんだと思う。ちょうどレーベルも変わったりしたし、あの曲を通じて新しい出会いもたくさんあったし。エポックメイキングな曲なのは間違いないです。でも何かいいなと思うのは、そうしたいからそうしたんじゃなくて、そういうものがあったから、そうなったということ。結局歌だったり詩だったり、そういうものに自分たちが振り回されて生きているわけだから。それはあるべき姿かな、という感じはします。


歌い出しの一行で、書けると思った

──『最悪な春』の詞はどういったところから書かれたのでしょうか?


御徒町凧:あの曲そのものの意義としては、やはり緊急事態宣言中に、『最悪な春』という言葉が浮かんで。僕はさきほど謳歌した、という言い方をしたけれど、個人的にはすごく清々しい日々だったんですよ。家族も実家に疎開していて一人だったし、会社もみんな仕事をしていなくて、出歩くこともはばかられるような時間で。本当に世間からのつながりを断って、家でずっとぼーっとできたんですよね。

いつもの春に比べて空が青く、街も静かだし、本来のあるべき姿みたいなものが戻ってきているようだった。ベネチアに魚が戻ってきたとニュースにもなっていたけれど、“ああ、人間ってずいぶん忙しく生きてきたんだな”ということを実感させられて。でもたまに外に出るとマスクをしてみんなナーバスで、実際怖かったし。その「いいな」と思う感じと、暗い感じの振幅の中で、いろいろな気持ちにさらされて。

でもその時に一つ強く思ったのが、明らかに全世界的な未曽有の最悪の状況だったじゃないですか。これまで戦争はあったけれど、局地的なもので勝ち負けがあるから。それとはまた違うんだけれど、これは明らかに未曽有の状況だと思って。“でも、このそこはかとない喜びは何だろう?”とずっと考えていたんですよ。それは少し前に読んだ本にも書かれていて。最近の認知科学とかではすでに検証されているんだけど、人間が何に喜びを感じるかというと、われわれは食べられる側だった動物としての時代も長くて、生き延びることに対して非常に発達しているというか、臆病な生き物なんですよね。

そんな自分たちが生得的に喜びを感じられるのは、人と共感することなんだそうです。人と何かを分かち合うことが、根本的な喜びとしてわれわれの中にインプットされている。だとしたら、コロナによってこの全世界の人が“本当に最悪な状況だよね”と思えていることにはみんな共感してたから、たぶんいまだ感じたことのない喜びが、どこかにあった、と勝手に解釈したんです。

明らかに状況は最悪なのだけれど、空は綺麗になって、日々、暖かくなっていて。さらにいうと春というのは、特に寒い地域からしたら、生き延びた感覚になれるんですよ。だから春って根本的に生きる上での喜びや安心というものがあって、春を最悪な状況で迎えるこの感じは何だろう?と思ったら、もう一言「最悪な春」で。春という喜びを、最悪という言葉が支えている。それが浮かんで、“これは音楽になりそうだな”と思い、その言葉を持ったまましばらく時間を過ごしていて。

それで10日ぐらいした時に空を見ていて、“絵に描いたような、抜けるような青空だな。でも『絵に描いたような空』というのも、随分人間っぽい言い回しだな。だとしたら、絵に描いたような空と、空に描いたような絵って、どちらがステキなのかな”と意味もないことを考えた時に、その「最悪な春」の詩情と相まって。そこから一連の歌詞になっていったんです。

そして不思議と「最悪な春なのに」と言いたかったんだけれど、「最悪な な な」と言葉が勝手にノッキングしたの。それでこれはもう調子があるなと思って、その「最悪な」の部分は生かして、原詞のまま直太朗に渡したんです。そうしたら直太朗が勝手に、あの「な な な」をリフレインにして。でもそれは僕が詩を書き始めた時に潜在的に思っていた“共感と喜び”みたいなものが、音楽の中で表現できていたから。でも、こういった説明は直太朗に一切していないんですよ。


──ええ、そうだったんですか!


御徒町凧:だから“ああ。やっぱり汲んでくれているんだな”と思って。たぶんこれは直太朗の実感なんですけれど、彼はずっと人前で歌い続けてきて、オーディエンスやファンと分かち合うということに喜びを感じていて。それがオンラインや無人のステージの前で、「な な な 」と歌い続けていて。

僕はあの曲を聴いて、いつかコロナと決着をつけた、折り合いをつけた未来で、みんなで「な な な 」と言い合う姿を想像すると、すごく感動するんですよ。お客さんもネットの書き込みで、誰からともなく「な な な」と書き出したし。いつかこの曲を同じ空間で一緒に歌いたい、という思いが、あの曲の中でグルグルしていて。僕は時間というものに対して疑いが強いんだけれど、でも今、いつ来るか分からない未来という、先に置かれている時間軸に対して希望を持つことって、すごくポジティブなことじゃないですか。

だから「最悪な春」ということを歌っているのに、希望を持てるという部分は、直太朗の人格だなあ、と。あの曲を歌う人なんだな、と思って聴いてるんです。



──「UtaTen」は歌詞サイトなのでお伺いしたいのですが、御徒町さんが『最悪な春』の中で「特にこれはキーになった」と感じられるフレーズはどれでしょうか?

御徒町凧:これまで話してきたことがもっとも表れているのは、「僕は 僕らは 忘れないだろう」というところなんですよ。「最悪な」というのは、個人的なことでしょう? “でもちょっと待って。これは俺だけじゃないじゃん”という「僕ら」の部分に、実はこの曲のヘソがあって。ただ、ちょっと悩んだんですよね。先ほども言ったように、詞に思想を込めると、ベタッとしてしまうから。ただ最近の J-POPはベタッとしたものがほとんどだから、こんなことを言っていてもしょうがないのかなと思いつつも、ここは少し歌詞として成り立つように寄せました。

もしくはそういう説明を抜きにして好きなのは、歌い出しの「絵に描いたような空と 空に描いたような絵があって」です。このフレーズは、変な話、誰にも書けないだろうな、という感じがして。こんな意味のないことをね(笑)。でもその速度なんですよ。これを無意識にシュッっと書けた時に、“この曲を書ける”と思ったから。この書き出しがあって、この曲を支えているという意味では、個人的には歌い出しの一行ですね。



TEXT キャベトンコ
PHOTO 井野友樹

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この特集へのレビュー

女性

たま

2021/06/17 19:41

最近再び聴き始めた直太朗さんの歌がコロナ禍の世界にぴったりと思いながら、そう言えば、822以降、御徒町さんはどうしている?と気に掛かっていました。たまたま、このインタビューを覗いて、御徒町さんの健在ぶりを知り、嬉しかった。御徒町さんは、その時代を読み取る力が優れていると思っています。そういえば、と発見することもチョクチョク。「どこもかしこもコロナ」のあとに来る、ポストコロナ禍の詩も今から期待しています。

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