「先生、人生相談です。」から展開するヨルシカの独特な世界観
----------------
「雨の匂いに懐かしくなるのは何でなんでしょうか。
夏が近づくと胸が騒めくのは何でなんでしょうか。
人に笑われたら涙が出るのは何でなんでしょうか。
それでもいつか報われるからと思えばいいんでしょうか。」
≪ヒッチコック 歌詞より抜粋≫
----------------
この問いかけは、コンポーザーのn-buna(ナブナ)とボーカルのsuis(スイ)による音楽ユニット・ヨルシカが手がける『ヒッチコック』の歌詞冒頭です。
2018年リリースの2ndミニアルバム『負け犬にアンコールはいらない』の収録曲で、明るいメロディと考えさせられる共感性の高い歌詞で人気を誇っています。
「雨の匂い」や「夏が近づく」という風景の描写に懐かしさや胸の騒めきといった感情を並べ、多くの人が見過ごしてしまうような心の機微を丁寧に描いていますよね。
ただ、一行進むごとに内容が重く暗いものになっていき、独特な雰囲気を醸し出しています。
この楽曲のMVのディレクションを担当したのは『言って。』に続く、二度目のタッグとなる大鳥監督です。
MVにはモノクロで少女とうさぎのような存在が描かれていて、冒頭の問いかけは少女から投げかけられたものであることが分かります。
ヨルシカがこの楽曲で伝えたいメッセージとは何なのか、続く歌詞とMVの内容を解説しながら考察を進めていきましょう。
----------------
さよならって言葉でこんなに胸を裂いて
今もたった数瞬の夕焼けに足が止まっていた
≪ヒッチコック 歌詞より抜粋≫
----------------
少女は誰かからかけられた「さよなら」という言葉に心を痛めているようです。
当たり前に使われる言葉のはずなのに、そこから受けた衝撃に自身でさえも戸惑っているように感じられます。
少女の胸に大きな穴が開いていることから喪失感を抱いていることが伝わってくるので、自分にとって大切に思っていた人や身近な人から言われ、その人は実際にいなくなったのかもしれません。
特に繊細な思春期の頃は、周囲の些細な言葉や表情ひとつに心が掻き乱されることがあるでしょう。
すぐに夜へと変わってしまう夕焼けに思わず足を止めてしまうほど、感傷的になっている様子が読み取れます。
----------------
「先生、人生相談です。
この先どうなら楽ですか。
そんなの誰もわかりはしないよなんて言われますか。
ほら、苦しさなんて欲しいわけない。
何もしないで生きていたい。
青空だけが見たいのは我儘ですか。」
≪ヒッチコック 歌詞より抜粋≫
----------------
「先生、人生相談です。」というフレーズや最初の問い掛けから、少女は「先生」に話しかけていることが分かります。
少女といるうさぎのようなキャラクターが「先生」なのでしょう。
少女は先生に、まず「この先どうなら楽ですか。」と質問します。
誰も「苦しさなんて欲しいわけない」のに毎日は苦しいことばかりで、本当は「何もしないで生きていたい」のにしたくもないことをさせられている。
この先状況がどうなれば、自分がどう立ち回れば、もっと楽に生きられるのかと問いかけているようです。
少女が大きな穴の向こうにいる先生に熱を入れて話している姿からも、彼女の切迫した日常が垣間見えます。
「青空だけが見たい」との願いもとても純粋なものです。
気持ちが落ち込む曇りや雨を気にせず、ただ美しい青空を眺めて心穏やかに生活したいという思いは、きっと多くの人が共感できるでしょう。
それを「我儘ですか。」と問う少女は、普段周囲の大人たちから気持ちを抑圧されている若者たちの代弁者とも言えます。
アルフレッド・ヒッチコックとは?
----------------
「胸が痛んでも嘘がつけるのは何でなんでしょうか。
悪い人ばかりが得をしてるのは何でなんでしょうか。
幸せの文字が¥を含むのは何でなんでしょうか。
一つ線を抜けば辛さになるのはわざとなんでしょうか。」
≪ヒッチコック 歌詞より抜粋≫
----------------
嘘をつくと胸は痛んでもう嘘はつきたくないと思うのに、それでも人は嘘をついてしまいます。
悪いことをしている人ばかりが得をし、真面目に頑張っている人が損をしているように感じることも多いでしょう。
そんな人の弱さや社会の不条理について、少女は純粋な気持ちで問いかけます。
また「幸せの文字」の中に「¥」に似た形があることを取り上げて、お金があれば幸せになれるのか、お金がないと幸せになれないのか、と疑問に思っているようです。
そして「一つ線を抜けば辛さになるのはわざとなんでしょうか」と幸せの脆さについて考えます。
一つでも何かが欠けてしまえば幸せでなくなってしまうなら、つらい日々を送る自分には何がどのくらい足りないのだろう。
身体により大きく開いた穴を見ながら、少女は自身の人生について真剣に悩んでいます。
----------------
青春って値札が背中に貼られていて
ヒッチコックみたいなサスペンスをどこか期待していた
≪ヒッチコック 歌詞より抜粋≫
----------------
ここでタイトルにもなっている「ヒッチコック」というフレーズが登場しますが、これは“アルフレッド・ヒッチコック”という人物を指しています。
アルフレッド・ヒッチコックは『サイコ』をはじめとした数多くのサイコスリラー映画を世に送り出し、「サスペンス映画の神様」と呼ばれた世界的に人気のイギリス人映画監督です。
様々な作品がゴールデン・グローブ賞の受賞やアカデミー賞のノミネートを受け、アメリカ映画参入の第一作目『レベッカ』では作品賞を受賞。
のちに彼の優れた映画術を紹介したドキュメンタリー映画も公開され、日本でも映画ファンなら知らない人はいないでしょう。
そんな人物を歌詞に登場させる発想はユニークですが、どんな意味を持つのでしょうか?
印象的なのは「ヒッチコックみたいなサスペンスを期待していた」とあること。
ヒッチコックの監督作品には、ドラマティックな演出で緊張感を作り出して映画の世界に没入させるという共通点があります。
その点を考慮すると、ヒッチコックのサスペンスのように他の一切を忘れるくらいの劇的な出来事が起こって、この生きづらい日常を塗り替えてくれることを期待しているのかもしれません。
世間的には輝いているイメージの「青春」というフレーズを、大人が勝手につけた価値だと皮肉っぽく歌っているのも、少女が体験している青春時代の苦痛を物語っています。
----------------
「先生、どうでもいいんですよ。
生きてるだけで痛いんですよ。
ニーチェもフロイトもこの穴の埋め方は書かないんだ。
ただ夏の匂いに目を瞑って、
雲の高さを指で描こう。
想い出だけが見たいのは我儘ですか。」
≪ヒッチコック 歌詞より抜粋≫
----------------
少女はついに先生に本音をぶちまけます。
周囲の反応も、自分がした質問の答えも、自分のこれからの人生のことさえ本当は「どうでもいい」と考えているようです。
答えを求めていた訳ではないことは、口のない先生を相手に話していることからも想像できるでしょう。
この先生に人生相談をしたのは、ただ自分の心の内を誰かに聞いてほしかったからなのかもしれません。
次に出てくる哲学者のニーチェも精神分析学者のフロイトも、共に人間について研究をしていたことで知られる偉人です。
しかし、そんな彼らでさえ、心に開いた穴の埋め方を書き記すことはしませんでした。
それはきっと人の心があまりに複雑だからです。
同じ人間とはいえ、何に苦しみ何に悲しみ、どうすれば心の傷が癒えるかは人によって異なります。
だから、傍から見れば幸せに生きているように見えたとしても、この少女のように「生きてるだけで痛い」と感じている人もいるのです。
ただ自然の心地良さに身を任せて「想い出だけが見たい」と思ってしまうのも仕方がないことなのではないでしょうか。
少女は穴の底で泣きながらぼんやりと過ごし、先生はその様子を穴の上から見ているだけという構図も、悩む若者と何もしてくれない大人たちの距離感を描いているように思えます。
少女が本当に知りたいことはただ一つ
----------------
「ドラマチックに人が死ぬストーリーって売れるじゃないですか。
花の散り際にすら値が付くのも嫌になりました。
先生の夢は何だったんですか。
大人になると忘れちゃうものなんですか。」
≪ヒッチコック 歌詞より抜粋≫
----------------
世の中にあふれるドラマや映画の中には「ドラマチックに人が死ぬストーリー」がたくさんあります。
売れるからと死に価値をつけて素晴らしいもののように扱うことに、少女は嫌悪しているようです。
そこで突然「先生の夢は何だったんですか。」と先生自身のことを質問しています。
この部分の歌詞を見ると、少女はただ話を聞いてほしかっただけではなく、自分の考えを聞いて先生にも考えてほしかったように感じられます。
少女の抱えている疑問や言いようもない苦しさは、きっと先生を含め大人たちの青春時代に抱えていたものと似ているはず。
それなのに歳を重ねた今では、その過去に見て見ぬふりをして、少女が伸ばした手を取ろうとしません。
先生には初めから腕がなく、助ける術を持っていないのです。
少女は先生を通してそんな大人たちに向けて、幼い頃の純粋でキラキラした夢でさえ「大人になると忘れちゃうものなんですか。」と心に訴えかけています。
----------------
「先生、人生相談です。
この先どうなら楽ですか。
涙が人を強くするなんて全部詭弁でした。
あぁ、この先どうでもいいわけなくて、現実だけがちらついて、
夏が遠くて。
これでも本当にいいんですか。
このまま生きてもいいんですか。
そんなの君にしかわからないよなんて言われますか。
ただ夏の匂いに目を瞑りたい。
いつまでも風に吹かれたい。
青空だけが見たいのは我儘ですか。」
≪ヒッチコック 歌詞より抜粋≫
----------------
大きな喪失感を抱えて多くの涙を流した少女は「涙が人を強くするなんて全部詭弁」で強くなんてなれなかったと落胆を味わいました。
「どうでもいい」とは言ったものの、実際はつらい現実を忘れることも叶わず、心待ちにしている夏もまだやってきません。
これからどうしていいかも分からないのに、喪失感を抱えたまま「生きていてもいいんですか。」と考えてしまいます。
何も気にせず「夏の匂い」や「風」を感じて「青空」を見ていられるなら、どんなに幸せだろう。
そんな風に想像しても思うようにはいきません。
しかし、穴の上から覗いていた「先生」まで穴の中に入っていることは、状況の変化を表しているのでしょう。
これまでのシーンを振り返ってみると、先生はいつも少女の近くにいて悲しい顔を見つめていました。
先生は少女を助ける術は持っていませんが、その悲しみにずっと寄り添っていたことを表しています。
そして、自分もそこから出られなくなると分かっていながら、意を決して穴に飛び込みました。
少女の言葉に心を動かされ、助けてはあげられなくても自分にできることをしたいと思ったのでしょう。
自分の経験値だけで解決策を与えようとするのではなく、ただ話を聞いてどこにいても寄り添ってくれる人が一人でもいてくれるなら、
きっと多くの人の心の穴が満たされていくのではないでしょうか。
----------------
あなただけを知りたいのは我儘ですか
≪ヒッチコック 歌詞より抜粋≫
----------------
最後のフレーズで、この楽曲の装いは一気に変化します。
少女が隣にいる先生に手を伸ばしているので、おそらく「あなた」は先生のこと。
しかし、カギ括弧がついていないので、直接言った言葉ではないのでしょう。
「あなただけを知りたい」という願いは、興味というよりも恋愛感情からくる欲求のように感じられます。
つらく苦しい毎日の中で、自分に寄り添ってくれた先生にいつの間にか恋をしていたのかもしれません。
そして、自分を知ってほしくて人生相談を持ちかけたのかもしれませんね。
たくさん問いかけた質問の答えも、これから先の人生のことも分からなくていいから「あなただけを知りたい」と思っています。
もちろん、先生が自分の想いに応え手を取ってくれないことは分かっています。
だから、心の中だけで問いかけるのです。
少女のピュアで健気な想いと心の穴が埋まっていく予感が、最後に優しい気持ちにしてくれますね。
「ヒッチコック」は人生を悩む現代人の教科書
ヨルシカの『ヒッチコック』は、ポップなバンドサウンドと心を抉るようなストレートな歌詞のギャップが魅力です。
心の痛みは、血が繋がっている家族でも人間をよく知る研究者でも、本当の意味で理解することはできません。
そうであれば、ただそばにいてその本音を聞いて一緒に悲しもうとしてくれるだけでいい。
生きることに悩む人の気持ちを代弁し寄り添い方を教えてくれる、現代人のために必要な名曲です。