怖いと噂の熊本民謡を徹底解釈
日本の民謡『五木の子守唄』は熊本県の人吉・球磨地方の五木村に古くから伝わる子守り唄です。
元々は地元で歌い継がれていたものが、古関裕而によって編曲されNHKラジオで放送されたことで全国的に広まりました。
口伝えで広まったため、歌詞が違う70ものパターンが存在します。
しかしその歌詞は、子守り唄と言いつつも子どもに聴かせるには怖いと言われています。
実はこの歌、子どものための歌ではなく、家庭の貧しさのために子守奉公に出された娘たちが仕事のつらさを慰めるために歌った守り子唄だそうです。
かなり方言が強く分かりにくい歌詞なので、言葉の意味に注目しながら歌詞の内容を考察していきましょう。
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おどま盆ぎり 盆ぎり
盆から先ゃ おらんど
盆が早よ来りゃ 早よもどる
≪五木の子守唄 歌詞より抜粋≫
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「おどま」は「私たち」、「盆ぎり」は「お盆まで」という意味です。
自分たちの子守奉公はお盆の時期までで、それから先は奉公先の家にはもういないと歌われています。
お盆の時期が変わることはないと分かってはいますが「お盆が早く来てくれたら早く帰れるのに」と家に帰れる日を待ちわびている様子が描かれています。
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おどまかんじん かんじん
あん人達ゃ よか衆
よかしゃよか帯 よか着物
≪五木の子守唄 歌詞より抜粋≫
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「かんじん」は漢字で「勧進」と書き、社寺仏閣の建立などの際に行われる寄付募集のことです。
そこから寄付を集めて物乞いするような人たちという解釈で「貧乏」や「物乞い」などの自身を卑下する言葉として使われます。
つまり、娘たちが身分の低い家に生まれた自分たちの貧しさを卑下しているということです。
続く「あん人達ゃ(あの人たちは)」とは奉公先の家族のことを指しています。
「よか衆」はそのまま訳すと「良い人たち」となりますが、これは「お金持ち」という意味で使われています。
自分の貧しさに比べて、ご主人たち家族はお金持ちの家に生まれたから美しい帯や着物を着ていて幸せだろうと羨む気持ちを言い表している歌詞です。
私が死んでも誰も悲しんでくれない
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おどんが打死だちゅて
誰が泣てくりゅきゃ
裏の松山 蝉が鳴く
≪五木の子守唄 歌詞より抜粋≫
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「打死だちゅて」は「死んだからと言って」、「泣てくりゅきゃ」は「泣いてくれようか」という意味の方言。
「おどん」が「私」のことを指すので、ここでは「私が死んだからと言って誰が泣いてくれようか」と娘たちが嘆いている様子が表れています。
そして「裏の松山で蝉が鳴くくらいのものだ」と、自分の境遇を憂いあまりに切ない心情をこぼしています。
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蝉じゃ ごんせぬ
妹でござる
妹泣くなよ 気にかかる
≪五木の子守唄 歌詞より抜粋≫
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しかし、娘たちは悲しんでくれる人がいることに気づきます。
「ごんせぬ」は「ありません」という意味で、泣いてくれるのが蝉だけではなかったと歌っています。
泣いてくれるだろうと思える人は肉親の妹でした。
妹に「泣かないで、心配になるから」と優しく声をかけています。
これにはせめて妹くらいは自分の死を悲しんでほしいという悲痛な思いも込められているように感じます。
娘たちの悲しい本音
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おどんが打死だば
道端いけろ
通る人ごち 花あぎゅう
≪五木の子守唄 歌詞より抜粋≫
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「いけろ」は「埋めてください」という言葉なので、これは「私が死んだら道端に埋葬してください」と告げている場面です。
実のところ当時の貧しい農村では墓を立てる余裕はなく、道端に土を持っただけの墓がよく見られたそうです。
そうした家庭の金銭的な事情もあって墓は立ててもらえないだろうから、ほかの村民たちと同じように埋葬してくれたらいいと言っているのでしょう。
それに、身分の低い私たちにはきっと誰も墓参りしてくれる人なんていないとも思っているようです。
「あきゅう」は「あげる」という意味があります。
道端に埋葬されたら、そこを通る人たちが花を供えてくれるはずだと考えています。
家族が墓参りしてくれないとしても、見ず知らずの通りすがりの人には死んでしまった自分の存在を少しでも思ってほしいという考えが垣間見えます。
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花はなんの花
つんつん椿
水は天から 貰い水
≪五木の子守唄 歌詞より抜粋≫
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埋葬された自分には何の花を供えてもらえるだろうかと想像する娘たち。
できるなら「椿」がいいと思っているようですが、それは自分が好きな花だからというよりも道端によく咲いている花だからなのでしょう。
そして、その椿には天から降る雨が水をやるから気にしなくていいと伝えているようです。
貧しさゆえに家族からの愛をあまり感じられなかった少女たちが、すぐにでも来るかもしれない自身の死を想像して嘆く様子が伝わってきます。
これまでも気にかけてもらえなかったのだから、たとえ死んでからも気にかける必要はないという自虐にも聞こえてきますね。
その一方で、今のつらい境遇から逃れるためにいっそ死んで楽になりたいと思っているとも解釈できるでしょう。
普通の人生さえ諦めざるを得なかった少女たちの本音が心に刺さります。
忘れてはいけない日本の歴史が綴られた曲
『五木の子守唄』にはこの令和の時代からは想像できないような過酷な暮らしが描かれていました。当時の人々の痛ましい思いに触れることで、今得ているものや恵まれた環境にいることの価値をより実感し、もっと大切にするべきだと戒められるのではないでしょうか。
かつて人々が負っていた苦しみを忘れないでいたいですね。