長年愛され続けるスピッツの名盤『楓』
スピッツの『楓』は1998年7月7日発売の、19枚目のシングルです。
彼らは1991年にデビューしたバンドなので、比較的初期の楽曲といえるでしょう。
発売からかなりの年数が経っているのにもかかわらず、スピッツの中でも高い人気を誇る楽曲の一つです。
スピッツの魅力は、時を経ても色褪せることのないメロディによって生み出される、唯一無二の世界観。
初めて聴く曲でも、耳にした瞬間にスピッツだと分かる程に、独特の世界観と存在感を放っています。
ノスタルジーを感じさせるメロディは、懐かしいのに古さを感じさせず、流行り廃りがめまぐるしい世の中にあっても埋もれることがありません。
加えて、ボーカルの草野マサムネが紡ぎ出す歌詞や歌声が、一度聴いたら忘れることのできない存在感を作り出しているのです。
『楓』もまた、長年愛される楽曲の一つ。
イントロから引き込まれるノスタルジックで切ない世界観は、一度聴くと癖になります。
そんな名曲でありながら、『楓』には怖い印象もあるようです。
切ない旋律が奏でる『楓』が怖がられる原因を、歌詞の意味から考察していきましょう。
「さよなら」に隠された二つの意味
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忘れはしないよ 時が流れても
いたずらなやりとりや
心のトゲさえも 君が笑えばもう
小さく丸くなっていたこと
≪楓 歌詞より抜粋≫
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遠い過去の出来事になっても、鮮やかに思い出せる記憶。
本当に大切なことは、案外些細な場面なのかもしれません。
心のトゲをそっと消してしまうような「君」は「僕」にとって、かけがえのない存在だったことでしょう。
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かわるがわるのぞいた穴から
何を見てたかなぁ?
一人きりじゃ叶えられない
夢もあったけれど
≪楓 歌詞より抜粋≫
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「かわるがわるのぞいた穴」というのは、双眼鏡か何かでしょうか。
そこに映し出される景色が同じでも、どのように見えるかは人それぞれ。
決して同じものを見ることはできないからこそ、人は相手のことを知りたいと願うのでしょう。
一人の方が身軽に生きていけるかもしれませんが、「君」と一緒にいなければ見られなかった景色を、「僕」はたくさん知っているようです。
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さよなら 君の声を 抱いて歩いていく
ああ 僕のままで 何処まで届くだろう
≪楓 歌詞より抜粋≫
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隣にいたのに、今はもう手の届かない「君」に投げかける「さよなら」が虚しく響きます。
スピッツの『楓』が怖いといわれている理由の一つに、このほの暗い歌詞が関係しているようですね。
スピッツの歌詞はよく、死とセックスをテーマにしているといわれます。
心のトゲを消してくれるような、太陽のような存在だった人にさよならを告げるというネガティブな響きが、死を連想させるのではないでしょうか。
額面通りに解釈すれば、この「さよなら」は「君」との別れです。
今は傍にいない「君」に別れを告げ、心に刻まれた大切な思い出を抱えて生きていこうとする「僕」の、ささやかな決意表明のようにも聞こえます。
しかし、もしも「君」と「僕」を引き裂いたものが死であるならば、意味合いが少し変わってくるのです。
心に溜まった汚い感情を浄化し、心のトゲを抜いてくれた「君」との別れは、「僕」を絶望させたのでしょう。
これまでの思い出を胸に、「さよなら」するのは「君」ではなく現世と考えることもできます。
「僕のままで 何処まで届くだろう」というのも、自分一人でどれだけ生きられるか、ではなく、どれだけ「君」に近付けるか、だと考えると、不穏な響きに変わります。
『楓』で歌われる「別れ」の解釈
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探していたのさ 君と会う日まで
今じゃ懐かしい言葉
ガラスの向こうには 水玉の雲が
散らかっていた あの日まで
≪楓 歌詞より抜粋≫
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二番では「君」との出会いが描かれています。
「君」と出会うまではずっと愛を探し求め、不安定な状態で生きていたのではないでしょうか。
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風が吹いて飛ばされそうな
軽いタマシイで
他人と同じ様な幸せを
信じていたのに
≪楓 歌詞より抜粋≫
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風にさらわれてしまいそうなほど軽い魂。
「僕」にとって自分の命は軽いと解釈すると、これも不穏です。
当たり前に毎日を生きて、漠然と、将来は人並みの幸せを得られると信じていた。どこにでもいる若者の一人です。
けれど実際には、人並みの幸せどころか、かけがえのない人を失ってしまった。
だからこそ軽い魂を捨て、「君のもと」へと行こうとしているのかもしれません。
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これから 傷付いたり 誰か傷付けても
ああ 僕のままで 何処まで届くだろう
≪楓 歌詞より抜粋≫
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「これから 傷付いたり 誰か傷付けても」という歌詞も、生きていく上で誰かに傷付けられたり、誰かを傷付けたりすることは避けられない、という人生観のように受け取れます。
“不器用に人を傷付けて、自分も傷だらけになってでも、君に恥じないよう、一人でやってみるよ”と呼びかけているのだとしたら、健気です。
生きている人が死んだ人にできることは、精一杯生きることくらいでしょう。
それを全うしようとしているのかもしれません。
しかし、もしも後追いを考えていると解釈するなら、傷付けるのは自分の身体(魂)で、傷付けるのは周りの人間です。
「僕」を大切に思う人がいるのなら、先立たれた人達は悲しみ、傷付くでしょう。
そんな犠牲を伴ってでも「君」を追いかけたい、もうこの世に未練はない、という、盲目的な恋心なのだとしたら、少し怖いですね。
愛は人を狂わすとはよく言ったもので、もしかすると人生の指針をすべて「君」に捧げてしまった「僕」が、ただ自滅していく物語なのかもしれません。
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瞬きするほど長い季節が来て
呼び合う名前がこだまし始める
聴こえる?
≪楓 歌詞より抜粋≫
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「瞬きするほど長い季節」とは、「君」と離れ一人になってからの時間でしょうか。
大切なものを喪失した人生は、色を失います。
「僕」は一体どのような人生を歩んでいるのでしょうか。
「呼び合う名前がこだまし始める」という歌詞は、遠くへ行ってしまった「君」に、「僕」が語りかけているようにも聞こえますね。
不器用ながらも一人で生きている姿を、愛しい人に見守っていて欲しいと願うのは、残された者の心理として自然です。
まるで、自分の声がちゃんと届いているか確認しているような、呼びかけのような歌詞が強烈に印象に残ります。
亡くなった人にはいつでも、自分の頑張りを見ていて欲しいもの。
傍にいられないからこそ、思いを馳せることしかできません。
しかし、「呼び合う名前がこだまし始める」という歌詞を、「君」と「僕」の心が通じ合うことを意味しているように解釈すると、また違ったストーリーが浮かび上がります。
「僕」は一人この世に生きることをやめ、「君」と同じ場所へ向かうと決めたのかもしれません。
死んでしまえば、瞬きするほど長い時間も、一瞬で終わります。
「聴こえる?」という言葉は、後追いした「僕」が向こうの世界で「君」を探し求めている声とも考えることができるのです。
『楓』に漂う死の影と生への希望
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さよなら 君の声を 抱いて歩いていく
ああ 僕のままで どこまで届くだろう
ああ 君の声を 抱いて歩いていく
ああ 僕のままで どこまで届くだろう
ああ 君の声を…
≪楓 歌詞より抜粋≫
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「僕」は、「君の声を 抱いて歩いていく」のであって、生きていくとは言っていません。
歩いていく先が残りの人生なのか、「君」と同じ場所なのか。
『楓』はリフレインで曲が終わっていきます。
「君の声を…」という草野マサムネの切ない歌声が耳に残りますね。
心に突き刺さって消えない「君」という存在が、「僕」を生かすのか殺すのか。
『楓』は、現世に一人残された「僕」が残りの人生を全うしようと奮闘する中で、もう二度と会えない大切な「君」に思いを馳せる曲とも、孤独に耐えきれず愛しい人の後追いをした、青年の薄暗い青春を切り取った歌とも受け取れます。
愛は人を強くもすれば壊しもするもの。『楓』は、一体どちらでしょうか。
作詞を手がけたボーカルの草野マサムネは、自由に解釈して欲しいという理由であまり詳しい説明をしないようです。
死のイメージと結びつけ、『楓』に対して怖い印象が一定数あるのはそのためでしょう。
しかし、解釈は人の数だけ存在していいという彼の考え故に、スピッツの音楽は幾通りもの解釈で好きに楽しむことができます。
それが、彼らを長年愛されるバンドたらしめているのではないでしょうか。
『楓』のMVは、映画館のような空間でゴーグルをつけ、何か映像を見ているというものです。
薄暗い空間で眺めるその映像はまるで、走馬灯を見ているようでもあり、思い出を振り返っているようでもあり。
MVまでもが、見た人の数だけの答えを用意してくれている。
そこにスピッツの懐の深さと、底なしの魅力を感じます。
『楓』の中で「僕」が選ぶ道は生か死か。自分なりの答えを探してみてはいかがでしょうか。