MVの心電図音に注目
『走馬灯』は現役大学生アーティストVaundyが自ら作詞作曲を手掛け、2022年7月にリリースした楽曲です。
一般的に「走馬灯」というと「昔の思い出が次々と蘇ること」、特に「死ぬ間際に様々な記憶を思い出すこと」をイメージする人が多いかもしれませんね。
実際のところ「走馬灯」は日本の伝統的な照明器具を指す言葉ですが、今回の楽曲と何か関連があるのでしょうか?
楽曲の意味を考える上でまず注目したいのが、同曲のMVの冒頭で聞こえてくる音。
楽曲が始まる前に「ピッ、ピッ、ピッ」と心電図の音が使用されているのです。
これをもとに考えると、同曲では死生観のようなものが歌われているのではないかと推測できますね。
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気づいたら
どこか知らない場所に来ていた
止めどなく
流れる車窓はもう見飽きた
≪走馬灯 歌詞より抜粋≫
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こちらは冒頭の歌詞。
「いつの間にか知らない場所にいた」というフレーズは、現世ではないどこかの世界にいる様子を連想させます。
また「止めどなく流れる車窓」は記憶のこと、つまり走馬灯を意味しているのではないでしょうか?
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何をしようとしたのかも忘れて
大事なものを見落としてきたことも
考えることが増えてきて
大事なこと忘れても
君のせいじゃない
僕のせいでもない
ありふれてた未来が
変わっただけ
もう
寝言が止まらなくなる前に
やめとこう
≪走馬灯 歌詞より抜粋≫
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続く歌詞は非常に優しいのが印象的ですね。
様々な後悔があるかもしれないけど、それは誰のせいでもない。
ただ未来が変わっただけ。
これまでの自分の行いを許せそうな歌詞です。
そしてここで気になるのが「やめておこう」という歌詞。
一体何をやめるのでしょうか?
続く歌詞から探ります。
主人公は亡くなった?
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やるせなく
顔を隠した人の姿
思いやる
見上げた理想は僕にもあった
≪走馬灯 歌詞より抜粋≫
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「やるせなく顔を隠す人の姿」を「やるせない思いで顔を覆う人」と解釈すると、この歌詞からはお葬式が連想されます。
それを「僕」が思いやっているということは、主人公はすでに亡くなっているのでしょうか?
「僕にも理想があった」という旨の歌詞からは、主人公にも何か志すものがあったことがわかりますね。
この後は再び優しい歌詞が続きます。
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どこに行こうとしたのかも忘れて
大事な何かに出会えなくとも
散々なことが増えてきて
大事なもの失くしても
君のせいじゃない
僕のせいでもない
ありふれてた未来が
変わってくだけ
もう
寝言が止まらなくなる前に
≪走馬灯 歌詞より抜粋≫
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1番では「やめとこう」というフレーズがありましたが、2番では歌われていません。
つまり主人公は何かをやめたものと思われます。
具体的に何を「やめた」のかは歌われていませんが、1番と2番で変わっているかもしれないものといえば主人公の生死。
もしかすると主人公は既に亡くなっているのかもしれませんね。
そもそも「君」って誰のこと?
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日々寄り添いまた離れ
さらばと願い纏う僕の姿は
晒し合いまた痛む
愛とすり減る僕のこころは
君のせいじゃない
僕のせいでもない
ありふれてた未来が
変わっただけ
もう
全て忘れてしまう前に
思い出そう
≪走馬灯 歌詞より抜粋≫
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「さらばと願い纏う僕の姿」というフレーズからも、主人公が既にこの世にいないことが推測されますね。
そしてまた「誰のせいでもない」という意味の歌詞が続きますが、冒頭から登場している「君」とは一体誰のことなのでしょう?
楽曲内では明言されていませんが、実はMVには2人の少女が登場しており、そのどちらかなのではないかと思われます。
ちなみに、MVに登場するのは自らの手で命を終えようとする女の子と、それを止めようとする友達。
楽曲の主人公が亡くなっているかもしれないことを考えると、MVで自殺しようとしている女の子が「僕」、止めようとしている友達が「君」なのかもしれません。
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寄り添いまた離れ
さらばと願い纏う僕の姿は
晒し合いまた痛む
愛を許してくれ
≪走馬灯 歌詞より抜粋≫
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最後の一文からは、「君」や残した人に対する主人公の愛が感じられますね。
楽曲・MVを通してそれぞれの考察を!
以上、Vaundy『走馬灯』の歌詞を考察しました。みなさんは同曲をどのような曲だと感じましたか?
ちなみに、冒頭の心電図音ですが、実は心肺停止の状態には至っていません。
MVの最後は少女たちが手を触れ合うシーンで終わっており、亡くなったかどうかまでは描かれていないのです。
つまり、まだまだ別の考察があるかもしれないということ。
ぜひみなさんも自分自身の考察を楽しんでくださいね。