戦後最大のヒット作品は1時間でできあがった?
第二次世界大戦の終戦直後である1946年に作詞を加藤省吾、作曲を海沼実が担当して制作された昭和の日本を代表する童謡『みかんの花咲く丘』。
NHKラジオ番組『空の劇場』で発表されたこの楽曲は、実は放送前日に作り上げられたものでした。
当時、東京の本局と静岡県伊東市立西国民学校を結ぶラジオの「二元放送」が行われることに。
放送前日になっても曲が仕上がらず悩んでいた作曲家の海沼は、自身を訪ねてきた雑誌「ミュージック・ライフ」編集長で作詞家としても活躍していた加藤に作詞を懇願します。
加藤が幼い頃に遊んだ故郷のみかん畑を思い出しながら約30分で歌詞を仕上げると、海沼は伊東行きの列車の中でこちらも30分ほどで曲を完成させました。
そうして慌ただしくできあがった楽曲が、当時12歳で人気絶頂の童謡歌手だった川田正子の歌唱により全国で大反響。
川田正子と井口小夜子がそれぞれ吹き込んだレコードがリリースされることとなり、『みかんの花咲く丘』は戦後最大のヒット作品とも称され、子どもたちの手遊び歌としても親しまれるようになっていったのです。
どのような情景が描かれているのか、改めて歌詞の意味を考察していきましょう。
みかんの花咲く丘から望む青い海
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みかんの花が 咲いている
思い出の道 丘の道
はるかに見える 青い海
お船が遠く 霞んでる
≪みかんの花咲く丘 歌詞より抜粋≫
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みかんの花は5月から6月の初夏に咲く白い花です。
初夏の澄み渡る青空の下で主人公の少年がみかん畑のある丘に立ち、漂う花の香りに包まれながら遥か向こうまで広がる青い海を眺めている様子が見えてきます。
丘の木々の間に覗く道は「思い出の道」とあるので、大切な誰かと一緒に歩いた思い出が頭を過ぎっているのかもしれません。
海には船が浮かんでいるのが見えますが、「遠く霞んでる」という描写から手の届かない寂しさが込められているように感じます。
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黒い煙を はきながら
お船はどこへ 行くのでしょう
波に揺られて 島のかげ
汽笛がぼうと 鳴りました
≪みかんの花咲く丘 歌詞より抜粋≫
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2番では、1番で出てきた船にさらに注目しています。
船は黒い煙を吐きながら進んでいて、主人公はぼんやりと「お船はどこへ行くのでしょう」と考えているようです。
波に揺られて進む船はやがて「島のかげ」に入ってしまい、主人公からは見えなくなったと思われます。
しかし汽笛の音が聞こえ、船が確かにそこにいることが分かります。
思うのはやさしい母さんのこと
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何時か来た丘 母さんと
一緒に眺めた あの島よ
今日もひとりで 見ていると
やさしい母さん 思われる
≪みかんの花咲く丘 歌詞より抜粋≫
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船が隠れた島は、主人公が母親と丘に来た時に「一緒に眺めたあの島」です。
1番で丘の道を「思い出の道」と表現していたのも、母親と並んで歩いた思い出があったからだったことが伝わってきますね。
しかしこの日の主人公は1人です。
1人で島を眺めていると「やさしい母さん」のことが思い出されます。
つまり母親が今はおらず、いつかまた一緒に丘に来てあの島を眺める機会はもう望めない状況にあるということです。
詳しい状況は描かれていませんが、主人公の幼心に大切な人を失った切なさと思い出の懐かしさが入り交じっていることが想像できるでしょう。
ちなみにこの3番の「母さん」は、一時的に「姉さん」に置き換えられて歌唱されていたことがありました。
これは発表当時に空襲などで母親を亡くした子どもが多かったことに配慮し、姉であれば嫁いでいった姉のことを思い出しているとも解釈できるだろうという思惑からだったそうです。
どちらにしても歌詞に描かれたみかん畑と海の雄大で穏やかな景色が、聴く人の心を優しく癒してきたに違いありません。
後世に残したい美しい日本の名曲!
『みかんの花咲く丘』はみかんの花が咲き誇る丘で青い海を眺める少年の姿とその心情が、シンプルな描写でありありと表現された楽曲です。現代でも歌い継がれていることは、自然の美しさと大切な人を思う気持ちは時代を越えても変わらないということを証明しているように思えます。
この名曲をぜひ後の世代にもずっと残していきたいですね。