舞台は香港の巨大スラム街・九龍城砦
退廃した世界を舞台に、様々な旋律を組み合わせた独特なメロディとややかすれた調声の融合でリスナーの心を掴むボカロP・トーマ。
数々のミリオン達成曲を生み出す彼の代表曲の1つとして愛されている楽曲が、2012年リリースの1stアルバム『Eureka』の収録曲である『九龍レトロ(クーロンレトロ)』です。
九龍とは現在の香港・九龍の九龍城地区に造られた巨大なスラム街「九龍城砦」のことを表していると思われます。
1950年代から香港に流入した移民たちが、わずか0.03平方キロメートルの土地に増築を重ねて造り上げたのが九龍城砦です。
そこには最大で約5万人もの人々が住んでおり、1993年に取り壊されるまで犯罪が横行する無法地帯として周囲から敬遠される場所でした。
トーマがこの九龍城砦をモチーフとしてどんな世界を描いたのか、歌詞の意味を考察していきましょう。
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違法建築 不格好
雲間を越え生える階上
密売の砦に発砲
黒眼帯巻いた骸骨
遺産相続 意図的な殺傷
老婆小屋に迫る埋葬
東洋に巣食う魔性の塔
神降ろし儀式 密教
新興宗教
≪九龍レトロ 歌詞より抜粋≫
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1番冒頭の歌詞を見ると、九龍城砦がいかに危険で退廃した場所であるかが表現されています。
雲間を超えるほど高くそびえる「違法建築」の中、「密売」に「発砲」や「意図的な殺傷」は当たり前。
怪しげな「新興宗教」のカルト集団も誕生し、その狭い空間は世界の縮図と化していることが分かります。
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不完全犯罪 冤罪
目に余る麻薬栽培
安全策 洗脳 落胆
最深淵に転落させた痩せこけた犬は
きっと死んだ
≪九龍レトロ 歌詞より抜粋≫
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隠すそぶりもなく露呈する「不完全犯罪」に、なすりつけられる「冤罪」。
そこかしこで「麻薬栽培」も行われていますが、治安の悪さに「落胆」していてもそこで暮らすうちに「洗脳」されて、それが日常になっていきます。
おそらく食料を求めて高いところまで上がってきた「痩せこけた犬」は突き落とされ、生死を確認されないまま見捨てられています。
誰しも心に生まれ持っているはずの愛情や温かさを失っている様子が読み取れるでしょう。
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暴利 害悪 嗚咽 嘔吐
傾いた帝都市街 壊れた地上
雁字搦めに腐る胎内で 眼を醒ませ
冴えよ人間 もう時間だ
疑いのない極彩 この楼閣
打チ壊セ 打チ壊セ 今すぐに
≪九龍レトロ 歌詞より抜粋≫
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「腐る胎内」というフレーズは、九龍城砦を母胎、そこに住む人たちを胎児に例えた表現だと解釈できます。
胎児が母胎で成長し人として目覚めるように、穢れが蔓延する壊れた世界の中で真っ当な人間としてこの日常に異を唱える時が来たと訴えているのではないでしょうか。
「極彩」は派手でけばけばしい色彩のことを指し、様々な罪で彩られた美しくないこの場所を「打チ壊セ 今すぐに」と行動するよう促してきます。
大切なものを失って気づくこの世界の異常さ
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見世物芸に手を叩く群衆
悪意絡まる暴言
動き止めた君の心臓
でも廻り続ける世界なんだろう
≪九龍レトロ 歌詞より抜粋≫
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九龍城砦で行われる見世物芸に手を叩いて喜ぶ群衆の声に「悪意絡まる暴言」が混ざって聞こえてきます。
そんな喧騒の裏で、心臓の動きが止まり静かに命を終えてしまう大切な人。
目の前で大切な人が死んでしまったのにきっと世界は変わらず廻り続けるのだと思うと、主人公はこの世界に疑問を覚えます。
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紛れもなく素晴らしい毎日で
全てが狂っていたけれど
ただ何かが足りなかったんだ
≪九龍レトロ 歌詞より抜粋≫
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それまでこの狂った日常を、当たり前で「紛れもなく素晴らしい毎日」と信じていました。
しかし「何か足りなかったんだ」と気づきます。
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才知 改革 飢餓 依存症
閉め切って関与しない 115階
何も変えられないのならば 血を流せ
叫べ人間 もう時間だ
均衡は常識外の味を知る
手ヲ挙ゲロ 手ヲ挙ゲロ 皆一斉に
≪九龍レトロ 歌詞より抜粋≫
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実際の九龍城砦に「115階」があったのかは定かではありませんが、高層階に住むある人物の下階への無関心を非難している様子が読み取れます。
もしかしたらそれは九龍城砦の人々を束ねるボスのような人物なのかもしれません。
主人公はその人に対して、現状の問題を「何も変えられないのならば血を流せ」と実力行使に出ようとしているのでしょう。
人々にとってそこでの暮らしは均衡が取れているように思えるかもしれません。
しかし日常が壊されてその均衡が揺らぐ時、自分たちの当たり前が「常識外」であったことに気づくはずです。
変わるためには「手ヲ挙ゲロ 皆一斉に」とあり、自らが意思表示をしなければいけないと皆に喝を入れていることが伝わってきます。
変化を求めるなら行動を起こせ
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大団円で裂ける空に
お前の殺した太陽はあるか
最終章で幕降ろすなら
その犠牲は誰だ
≪九龍レトロ 歌詞より抜粋≫
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この部分は傍観者で居続ける115階の人物に向けた言葉のようであり、いまだ踏み出せていない自分自身への問いかけのようにも捉えられます。
「大団円」は芝居や舞台が円満に収まる最後の局面のこと。
様々な見方ができますが、ここまで九龍城砦の歪んだ生活が当たり前の日常と見なされていたことを考えると、九龍城砦が壊されないままでいる未来のことを意味しているのかもしれません。
その解釈を前提とするなら、「裂ける空」はこの楼閣がさらに高くなり空まで届くことをイメージしていると考察できます。
「お前の殺した太陽」のフレーズは、多くの場合太陽が周囲を照らすポジティブな存在として用いられることから、誰かの身勝手で亡くなった大切な人のことと解釈できそうです。
大切な人はもう亡くなってしまったのに、罪に問わないまま放っておいていいのかと悔しい気持ちを露わにしているように思えます。
こんな狂った物語の幕を下ろすための「犠牲は誰だ」、自分はそうできないのかと主人公が自問自答しているように感じました。
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安堵 頽落 喜劇 空想
余りにも怪奇な旧市街の区域
こんな優雅な一日なのに死にそびれ
泣くな人間 もう時間だ
この塔の最上階 終焉の地
駆ケ登レ 駆ケ登レ 今
悲鳴を上げたら
≪九龍レトロ 歌詞より抜粋≫
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ほかの地域とは全く違う様相を呈する「余りにも奇怪な旧市街の区域」。
何もする必要がない「優雅な一日なのに死にそびれ」という言葉は、早くこの世界から解放されたいのにそうできない心の奥の葛藤を思わせます。
「泣くな人間」は自分に当てて投げかけた言葉かもしれません。
大切な人を救えず後悔し、もっと早く行動できなかった自分を恥じる気持ちが、きっと涙になって流れているのです。
しかしそれももう終わりだと塔の最上階へ駆け登ります。
階下にいる誰かが最上階に立つ自分に気がついて「悲鳴を上げたら」その瞬間が行動の時です。
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冴えよ人間 もう時間だ
下界を見下ろした 笑いながら
身ヲ投ゲロ 身ヲ投ゲロ 今
≪九龍レトロ 歌詞より抜粋≫
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自身の狂った日常に疑問を持つことなく「下界」で生きる人々を見下ろし、主人公は笑いながら身を投げます。
前半で落とされてしまった「瘦せこけた犬」と同様の構図ですが、おそらく主人公が投身したことで見方を変える人もいるのではないでしょうか。
自分の命を犠牲にしても悲しんでくれる人は亡くなってしまっているため、このような思い切った行動が取れたのでしょう。
そう考えると悲しい結末ですが、世界が変わるには大きな行動が必要であることを訴えかけているような気がします。
さらに深く歌詞を読み解こう
トーマの『九龍レトロ』は九龍城砦に暮らす主人公が変化を求めて立ち上がる、勢いのある歌詞が印象的です。またリメイク曲『九龍イドラ』の歌詞は、『九龍レトロ』とは違う視点で九龍城砦を見ていることが読み取れるでしょう。
ぜひ中毒性の高い2曲の歌詞をじっくり考察しながら、情景を思い描いてみてくださいね。