今春のコンサートツアー以後の五月から、「充電期間」に入ることを発表したKAT-TUN。
10周年ベストアルバムに収録された最新曲『君のユメ ぼくのユメ』は、彼らのデビュー曲の作詞を手掛けたスガシカオが三人に贈った、『Real Face』のアンサーソングとなっている。
公開日:2016年4月18日
今春のコンサートツアー以後の五月から、「充電期間」に入ることを発表したKAT-TUN。10周年ベストアルバムに収録された最新曲『君のユメ ぼくのユメ』は、彼らのデビュー曲の作詞を手掛けたスガシカオが三人に贈った、『Real Face』のアンサーソングとなっている。
『Real Face』といえば特に印象的なのは、“ギリギリ”や“ナミダ・ナゲキ”といった、当時スガシカオがあまり書くことがなかった言い回しが多用された歌詞だろう。アンサーというだけあって、今回の楽曲にもそれらはしっかりと活かされている。
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誰より高く跳びたくて 無我夢中で走った
重ねた本気と汗は 君に届いたかな?
翼が切れてしまいそうな ギリギリの夜も
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冒頭のこの三行は、メロディーと共に強い哀感を含んで、とても簡単には言い表せなかったであろう紆余曲折の十年間の彼らの想いがしっかりと伝わる詞になっている。普通は“折れて”と表現する“翼”を、“切れて”しまいそう、と書かれているのが実に独特だ。「切れる」には「折れる」にはない「(繋がっていたものが)途絶える・なくなる・分かれる」という意味が含まれる。彼らが跳ぶための“翼”がいかに傷ついてきたのかが表れており、後に続く“ギリギリの夜”を非常に強調している。
三人で歌う“届いたかな?”という問いかけの詞からは、この十年で「ファンを何度も裏切ってしまった」という自責すら感じるほどだ。十年前には自信の表れに聴こえていた“ギリギリ”という単語が、もはや今は追い詰められている様子に聴こえてしまう。
しかし、サビではそれが希望へとつながってゆく。
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いつだって ぼくのすぐ隣で 君の声がしたよ
“行こう! ぼくらなら跳べるぜ”
そう思えたんだ
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“ぼく”はKAT-TUN自身であり、“君”は三人の内の自分以外のメンバーやファンの存在。彼らは仲間やファンがいる限り、いつだってまだ跳べると思えた。そんなメッセージがこの歌に託されている。
“もしも神様がいて 過去を変えられるとして”
“何も変えませんよ”って言える日々にしたいんだ”
“このナミダ・ナゲキ→のみ込んで デカイ×セカイへ”
過去を変えなくていい、そう言える日々に“したい”という願いの形は、裏を返せば今はまだわからない未来への不安を示している。それを乗り越えるために必要なのが、“このナミダ・ナゲキ”であった。十年前、“未来へのステップ”と称したそれは、あの頃誓った“デカイ×セカイ”へ行くための栄養として確かに吸収されてゆく。
そうして、かつて“夢を語るフリしてれば なんか大人になれる気がして”いた彼らは、本当に大人になったのだ。
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君のユメ ぼくのユメ 一緒ならうれしいね
喜びも痛みも 今を彩るレシピになれ
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彼らにとって、もはや“ユメ”は“リアル”になったのだろう。それはもしかすると、彼らが十年前に描いていた、手に入れたかった“リアル”とは違ったかもしれない。それでも、彼らはこの運命を進むことを選んだ。
“うれしい”や“彩る”は、前を向いていなければ出てこない表現だ。色々なことがあったかもしれないが、それでも三人でKAT-TUNを続けていく。この局面でこういう曲を歌うことには、そういった意味があるのだろう。
“いつだって 君を一人ぼっちにはさせないと誓う”
“いつだって ぼくの行く未来に 君がいてくれるなら”
“君となら”
これは、「充電」を「事実上の解散」などと報じられ不安を募らせているであろうファンへの、歌という形をとった三人からのメッセージだ。
KAT-TUNというグループ名に含まれるハイフンをファンの名にしたように、彼らの“ユメ”はいつだってファンと共有され、ファンとの絆によって繋がっているのだから。
ベストアルバムには、デビューから最新まで、発売当時のシングル音源が収録されている。六人の『Real Face』から始まった彼らの歴史は、三人のこの楽曲にて一旦締め括られたように見せながらも、また歴史が始まることを示唆している。
“行こう! 一緒なら跳べるぜ どこまでも”
最後に、それぞれがソロで歌ったあとユニゾンで四度と繰り返されるこのフレーズが、彼らの今の想いだ。大事なことだから繰り返す。絶対にそのユメという未来へ「行くと約束する」と。
彼らの決意が詰まったこの曲を聴けば、「充電」が終わるその時を強く信じられるはずだ。
TEXT:祈焔( https://twitter.com/kien_inori )