詩人・江間章子の尾瀬の記憶が描かれた夢と希望の曲
夏を感じさせる童謡は多数ありますが、その中でも穏やかな夏の風景と懐かしさを感じさせてくれるのが『夏の思い出』ではないでしょうか。
『夏の思い出』は作詞を江間章子、作曲を中田喜直が担当し1949年に発表された楽曲です。
1947年に終戦後の復興の機運が高まる中、NHKラジオで放送するオリジナル曲として“夢と希望のある歌を”と依頼を受けて制作されたそうです。
作詞を務めた江間はそのテーマを聞き、かつて訪れた尾瀬の風景を思い出して歌詞に落とし込んだそうです。
その魅力的な歌詞とメロディに多くの人が魅了され、中学校の音楽の教科書にも掲載されてきました。
歌詞にどのような思いが込められているのか、背景にも注目しながら歌詞の意味を考察していきましょう。
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夏が来れば 思い出す
はるかな尾瀬 とおい空
霧のなかに うかびくる
やさしい影 野の小路
≪夏の思い出 歌詞より抜粋≫
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新潟県出身の詩人・江間章子は、戦時中の1944年に疎開先の人たちとともに食料を求めて尾瀬を訪れました。
尾瀬は福島県・新潟県・群馬県にまたがる地域で、その中心地の尾瀬ヶ原は日本を代表する高地の湿原帯となっています。
湿原の霧の中を進んで行くと、ぼんやりと「野の小路」が浮かび上がってきます。
「やさしい影」という表現は、その霧の中に誰かの姿を見ているようでもありますね。
広々とした空とひんやりとした空気が伝わってくるような霧の風景が、歌詞の世界に引き込んでくれます。
水芭蕉に見る懐かしい記憶
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水芭蕉の花が 咲いている
夢見て咲いている水のほとり
石楠花色に たそがれる
はるかな尾瀬 遠い空
≪夏の思い出 歌詞より抜粋≫
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幼少期を母親の故郷である岩手県で過ごした江間は小学生時代、あぜ道のほとりに咲く水芭蕉が特別な存在でした。
地元の人はその花をベゴの舌と呼んで親しんでいたそうで、江間にとってそれは楽しい夏の始まりを感じさせるものだったようです。
そして、食料を求めてやって来た尾瀬の地で一面に広がる水芭蕉の景色を見て、かつての懐かしい思い出が蘇ったのでしょう。
「石楠花色」は花の石楠花のことで、おそらく東北地方から中部地方の山地に分布するアズマシャクナゲを念頭に置いていたと思われます。
石楠花は一般的に白や赤が多いですが、アズマシャクナゲは紅紫色をしています。
「石楠花色にたそがれる」というフレーズは水芭蕉にかかっているため、アズマシャクナゲの色に似た暮れていく黄昏時の空色に包まれて水芭蕉が佇んでいる様子を思い浮かべられるでしょう。
また「遠い空」や「やさしい影」という描写は、思い出の地である岩手の情景と、その景色を通して浮かぶ自分を愛で包み込んでくれた母親の姿を表していたのかもしれません。
尾瀬のその景色を見つけたことで心の飢えを癒し、夢と希望を見い出したのではないでしょうか。
情景の美しさと心の中に湧き出る温かな気持ちが重なる魅力的な歌詞です。
ちなみに尾瀬の水芭蕉が咲くのは5月末頃で、時期としては春の方が適切です。
しかし江間が幼少期を過ごした岩手県北西部は夏でも水芭蕉を見られる地域だったため、過去に思いを馳せて「夏の思い出」というタイトルがつけられたと考えられます。
また、歳時記に掲載されている俳句の季語では水芭蕉は夏の季語のため、夏のイメージは間違いではありません。
五感で感じる美しく穏やかな景色
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夏が来れば 思い出す
はるかな尾瀬 野の旅よ
花のなかに そよそよと
ゆれゆれる 浮き島よ
≪夏の思い出 歌詞より抜粋≫
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2番では「野の旅」とあるため、尾瀬の小路を散策している様子を想像できます。
進んで行くと、花の中に揺れる「浮き島」を見つけました。
この「浮き島」とは湖や沼などに浮かぶ島のようなもので、多くは泥炭や植物の枯死体などが集まってでき、そこに植物が根づいてできあがります。
尾瀬ヶ原西部には池塘(ちとう)と呼ばれる池が点在しており、その中に小さな浮き島が存在します。
風がある日には浮き島がゆっくりと動くのを見られるそうです。
景色の美しさだけでなく、湿原を流れる風や花が揺れる音なども伝わってきますね。
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水芭蕉の花が 匂っている
夢見て匂っている水のほとり
まなこつぶれば なつかしい
はるかな尾瀬 遠い空
≪夏の思い出 歌詞より抜粋≫
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後半では水芭蕉の香りに注目しています。
水芭蕉は最盛期になると、香水のような甘い香りを放つ花です。
人の記憶は香りと密接に結びついていると言われていて、ある香りを嗅ぐと関連した記憶や当時の感情を思い出すということがあります。
江間にとって水芭蕉は夏の楽しさを想起させる象徴でした。
尾瀬を訪れたのは終戦間近で、戦争の影響を直に感じている時です。
その中で水芭蕉の爽やかな甘い香りを感じ、これからあの楽しかった夏がやって来るんだと夢見たとしても不思議ではないでしょう。
目を閉じて水芭蕉の香りを感じると、いつでもその懐かしい記憶が思い出されます。
そんな風に五感でその情景を味わっていることが見て取れ、穏やかな気持ちが感じられます。
音楽と共に懐かしい記憶を思い巡らしてみよう
童謡の『夏の思い出』では、自然の壮大さや豊かさがシンプルな言葉で見事に表現されていました。まさに「夏がくれば思い出す」、聴く人の原風景を思い出させてくれるような温かい楽曲です。
ゆったりと心地よい音楽に包まれながら、ご自身の懐かしい記憶にじっくり浸ってみてはいかがでしょうか。