Saucy Dogが映画「恋に至る病」のために書き下ろした楽曲「奇跡を待ってたって」
Saucy Dogの新曲『奇跡を待ってたって』は、映画『恋に至る病』主題歌です。2025年10月22日に配信リリースされました。
コメントでボーカルの石原慎也は、「ほんの少し環境が違えば、自分も大きく道を踏み外してしまうかもしれない」と言っていますが、『恋に至る病』で描かれることは遠い世界のようでいて、実は私たちの日常のすぐそばに有り得るのかもしれません。
歌われていることは、大切な人を思う気持ちや、生きづらさ、それでも前を向こうとする気持ちなど、誰しも抱く感情ばかりです。
奇抜な映画のようでいて、抱える不安や、人を愛おしく思う気持ちなど、私たちと何ら変わらない部分もある主人公たち。
『奇跡を待ってたって』の歌詞が強く印象に残るのは、解釈によって前向きな歌にも不穏な歌にも変わってしまう、歌詞の深みのせいでしょうか。
映画の世界とリンクさせながら、歌詞の意味をじっくりと読み解いていきたいと思います。
映画と同じく二面性を持つ楽曲

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茂みの中で独りぼっちなの?
瞬きをする度に涙が伝う頬
そんな思いを君にさせるような奴は
いなくなっちゃえばいい
≪奇跡を待ってたって 歌詞より抜粋≫
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大切な人を傷つける人、泣かせる人。
そんな奴がいなくなればいいと願うのは、とても人間らしい感情です。
しかし、映画『恋に至る病』の主題歌と思って聞くと、不穏な響きにも思えます。
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殺してやりたいと
思えてしまうくらい純粋な愛だった
行きすぎた思いはさなぎになって
羽根が生えただけの塊になった
≪奇跡を待ってたって 歌詞より抜粋≫
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殺人に手を染めているかもしれない相手を愛してしまう、危険な恋。
「殺してやりたい」と思うほどの強烈な恋。
しかし、好きな人に害をなす人間を消し去りたいという願いは、危うさを伴います。
純粋すぎるが故に愛が暴走し、やがてさなぎになり、「羽根が生えただけの塊」になりました。
さなぎは蝶になったのでしょうか。
それとも、醜い生き物に変容したのでしょうか。
さなぎは、大人になる前段階です。
強すぎる思いがさなぎになった後、一体どのような生き物として世に放たれるのか。
不穏な予感がします。
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奇跡を待ってたって自由にはなれなくて
ただ大空に羽ばたいて見たこともない綺麗な場所へ
行きたいだけ
もう誰も傷付かないでいいように
≪奇跡を待ってたって 歌詞より抜粋≫
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世の中には希望より、絶望の方が多いかもしれません。
奇跡を待っていても誰も助けてくれず、事態が良くなることもない世界なら、どこか遠くへ逃げてしまいたい。
切実な願いは、殺人犯かもしれない彼女を愛してしまう、映画の主人公・宮嶺の、もしくは同じく主人公の女子高校生・景の願いでもあるのかもしれません。
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嵐を蹴散らして期待なんかしないで
これからは僕らで書き換えてくんだ運命すら
生きたいだけ
また君が独り泣かないでいいように
≪奇跡を待ってたって 歌詞より抜粋≫
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期待すれば裏切られる。
ならばいっそ期待などしないで、自らの手で生きる道を切り開こう。
先行きの見えない現代に寄り添うような歌詞が印象的ですが、宮嶺と景に置き換えると、不吉な未来を想像させる歌詞でもあります。
生きるために切り開いた道の先に、一体どのような未来が待っているのでしょうか。
映画とリンクさせると歌詞の意味がまったく違って聞こえる『奇跡を待ってたって』という楽曲は、恋愛と殺人を描いた映画のように、二面性を持った楽曲だといえます。
失って気づく「当たり前」のありがたさ

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たった一度きりの間違いが命取り
ぬるま湯にひとり浸っていて
もうあの日の様に戻れないのならもっと
焼き付けておけば良かったかな
≪奇跡を待ってたって 歌詞より抜粋≫
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まるで人生の選択を間違えたかのような絶望を感じさせます。
取り返しのつかない間違いとは一体何でしょうか。
些細なことがきっかけで巻き起こるイジメも、殺人も、取り返しのつかない致命的な変化の一つです。
人は、もう戻れないと気づいた時に初めて、失ったものの尊さを噛み締めるもの。
それが当たり前にある時には、ありがたさに気づけないのです。
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優しい風に殴られたような
ずっと寝起きみたいに頭が重い
まだフラフラだって君を守れるならば
全てを置いて這ってでも行こう
≪奇跡を待ってたって 歌詞より抜粋≫
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「優しい風に殴られたような」という表現が秀逸です。
強い衝撃ではないのに、ボディーブローのようにあとからジワジワと苦しめる痛み。
それは、景が殺人犯かもしれないという疑念でしょうか。
好きな人と平凡な恋を続けられないかもしれない。
相手に何か致命的な問題を見つけてしまう恐怖や不安。
たとえ這ってでも守るという強い決意は清々しいですが、映画とリンクさせて考えると意味が変わってきます。
「寝起きみたい」な頭で導き出した決断は、果たして正しいのか。
彼女が犯罪者だとしても、変わらず愛するという決断。
それはまさに、寝起きの頭のように曖昧で、判断力が鈍っているようにも思えます。
愛という大きな感情に惑わされて、究極の判断ミスを犯している可能性すらあるのです。
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昨日が懐かしく思える日が来れば。
磨りガラス越しくらいの記憶が
ココロの少し暗いところで光って消える
やがて一度も思い出さなくて良いような
そんな当たり前が訪れるだろうか
≪奇跡を待ってたって 歌詞より抜粋≫
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平穏な日常の中で、強烈な過去は薄れていく。
それはまるで、彼女の犯した罪や、そんな彼女を愛した罪悪感や迷いから目を背けるよう。
「磨りガラス越しくらいの記憶」はひどく曖昧で、その曖昧な記憶すら思い出さなくなる日を願っているのです。
それは、殺人犯を愛した過去を闇に葬り去り、当たり前のどこにでもある幸せなカップルになることを望んでいるようにも思えました。
解釈次第で180度変わる歌詞の意味が最大の魅力
こうして見てみると、『奇跡を待ってたって』の歌詞は前向きに見えて、非常に不吉でもあります。楽曲だけを見れば、先行きが不安定なこの時代、前を向いて生きていく希望を感じられる歌。
奇跡を待っていても誰も手を差し伸べてくれないなら、自分で掴み取るしかない。
不格好でも、素晴らしい人生を歩むための応援ソングともいえます。
しかし誰の力も借りず、自らの手で邪魔者を殺し、宮嶺を守り続けた景の、歪んだ愛情のようなものと考えると、その闇深さにゾクッとするのです。
果たして、景の本音はどこにあるのか。
宮嶺は彼女とどう向き合っていくのか。
二人の行く末が気になるところですね。
映画を観る前と観た後でも、楽曲の解釈がガラリと変わるかもしれません。
作品に触れ、改めて歌詞の意味を考察したくなるような楽曲です。
