現代社会に見られる恐怖心や孤独感

2025年6月25日にCDシングルとしてリリースされた、椎名林檎の『芒に月(すすきにつき)』は、綾瀬はるか主演のNHK土曜ドラマ『ひとりでしにたい』の主題歌に起用されています。
『ひとりでしにたい』は、作画・カレー沢薫、原案協力・ドネリー美咲のタッグが手がける漫画シリーズをドラマ化した作品です。
独身のアラフォー女性が死と向き合い、よりよく生きるための終活について考える社会派コメディ。
その主題歌となった『芒に月』は、東京事変からの盟友で鍵盤奏者の伊澤一葉のバンド・APPAの『ジプシー』が原曲です。
作詞を椎名林檎、作曲を伊澤一葉、編曲を村田陽一が担当し、古風でノスタルジックな雰囲気のある楽曲に再構築されました。
2024年に開催されたアリーナツアー『(生)林檎博’24―景気の回復―』の本編ハイライトで初披露され、ファンの熱望を受けて楽曲リリースが決定した、ファンにとっても思い入れのある楽曲です。
CDジャケットからもわかる通り、タイトルの「芒に月」は花札をモチーフにしています。
赤地に芒と満月が描かれた8月の絵札で、豊穣や成功、祝いを意味します。
このモチーフが楽曲をどのように象徴しているのか、歌詞の意味を考察していきましょう。
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不景気で人々のフラストレーション膨れ返り破滅寸前
憂うべき世ですしカンバセーション取り交わして行きたいもんです
いえそう簡単じゃなさそうです幽霊の正体ご覧になって枯れ薄とは
ニンゲンニンゲン双方ぶっ刺し合って致命傷食らって南無阿弥陀仏
≪芒に月 歌詞より抜粋≫
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この世は「不景気」で、「人々のフラストレーション」は膨れ返ってはち切れんばかりです。
感情のままに行動した先には破滅しかなく、誰もがその瀬戸際でギリギリ踏ん張っています。
「カンバセーション」とは会話や対話を指す言葉です。
つまり「憂うべき世」を生きる者同士、対話によって支え合っていきたいと考えているのです。
しかし、現実はそう簡単にはいきません。
「幽霊の正体ご覧になって枯れ薄」のフレーズは、ことわざの“幽霊の正体見たり枯れ尾花”のことです。
幽霊だと思って恐れていたものが、本当は風に揺れる芒の穂だったという意味で、疑心暗鬼になって見ると、何でもないものまで恐ろしく見えてしまうことを表します。
現代人は厳しい現実の中で人を信じることが難しくなっていて、そのせいで対話を求める人の声を退けてしまっています。
人との関わり合いが重要であるにも関わらず、恐怖に支配されて無意味に傷つけ合っては、救いを求めることの繰り返しです。
そうした現代社会に蔓延する、恐怖や孤独感が示されているように思えますね。
自分を信じニンゲンを愛していたい

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悠然と構えてトランスフォーメーション延いては誇っている融通性
中年現役選手/ロストジェネレーションゆえ費用対効果に際し万全
だからもう勘繰っていらっしゃいますな他意なんて皆無で一所懸命
枯れ薄と言うニンゲンニンゲン愛そうと愛したいと列島行脚参拝だ
≪芒に月 歌詞より抜粋≫
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時代の変化に取り残されないように、ある人は考え方や振る舞いの「トランスフォーメーション」を試み、融通の利く自分を誇っています。
一方で、「中年現役選手」や「ロストジェネレーション(失われた世代)」と表現される悲観的な人たちは、「費用対効果」を上げるために備えます。
誇りと悲哀が入り交じる社会の複雑さが見えてくるでしょう。
「他意なんて皆無で一所懸命」に生きる主人公は、それを無駄だと言う人々を「愛そう」「愛したい」と思います。
愛にこそ救いがあると信じ、祈りを捧げる真摯な気持ちが垣間見えますね。
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体 頭 諌め合っている
僕は 僕を 疑いたがる
魂よ 応答せよ 歌えよ
連れ去りたもれ
いずこへなりと
≪芒に月 歌詞より抜粋≫
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主人公は自分自身を「疑いたがる」気持ちから逃れられません。
自分を信じたいのに信じられないのはつらいことです。
その呪縛から逃れたくて、「魂よ 応答せよ 歌えよ」と語りかけます。
自分自身の本質を知り、正しい方向に導いてくれるよう願う心情が読み取れるでしょう。
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海の深く 包まって
過去に口付けた矢先 ちゅ!
未来への門が開いた
今を突き刺す両足踏ん張って立ち上がれ
あ~あ いよいよ勝ち取ったんだ僕は僕の信頼を
≪芒に月 歌詞より抜粋≫
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「海の深く 包まって」というフレーズは、意識下の領域や抑圧された記憶のメタファーと考えられます。
思考や記憶の奥に入り込み、見えなくなっていた過去と向き合った結果、未来へと繋がる門は開きました。
立ち止まりそうになるのを堪え、両足で踏ん張って立ち上がるよう自分を鼓舞し、主人公は進んでいきます。
そして、ついに自分自身を信頼できるようになったようです。
疑いの気持ちを乗り越えた勝利の喜びが表現されています。
終わりのときに贈る祝福の言葉

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土砂降りの雨 脚を取られる 敢えて濡てば 敢えて委ねて
裸足で走れ 流されるまま 息急き切って さあ彼方へ‥
≪芒に月 歌詞より抜粋≫
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「土砂降りの雨」に脚を取られるように、降りかかる悲しみによって身動きが取れないほど絶望することもあるでしょう。
それでも主人公は敢えて濡れ、その悲しみに身を委ねています。
「濡てば」の表現には、「もし濡れていたら」という仮定や「どうせ濡れるなら」という諦めの意味が含まれます。
そのため、どうせ濡れるのであれば抗わずにいようとする受け入れの考えが伝わってきます。
それは必ず訪れる死を受け入れることを指しているのかもしれません。
また、裸足で走るということは、傷を負うのも承知でありのままの自分で行動するということ。
死そのものへの恐れや不安、その道中にぶつかる問題と向き合い、今を一所懸命生きる姿を表しているように感じます。
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Crossing over fields and the hills we overcome
Looking at the sky for the sky is what we share
Capturing the wind, blow us from this muddy place
Feeling every beat in the racing of my heart
遠くまで来た あなたを臨む夜が満ちていた 弥栄よ祝うよ
≪芒に月 歌詞より抜粋≫
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英語詞の部分は次のように訳せます。
“野原を越え、丘を越えよう
空を見上げよう、空こそが私たちが共有するもの
風を捕まえよう、この泥だらけの場所から吹き飛ばせ
激しい鼓動一つひとつを感じながら”
この歌詞が意味するのは、生きることの尊さ。
ドラマのキーワードともなっている“よりよく生きて、よりよく死ぬ”という考え方と通じる点です。
死という人生の終わりをよりよい終幕とするためには、きっと後悔が残らないよう、全力で生きることが大切です。
人生の紆余曲折を一つひとつ乗り越え、人と繋がり、前進することは生きていなければできません。
だから、生きていることの価値や意味を実感しながら、全ての瞬間を全力で生きることが“よりよく生きる”ということなのではないでしょうか。
ラストの一節は、人生の最終章に入った主人公の言葉と解釈できそうです。
今は亡き「あなた」が見た情景を主人公も目にしています。
「弥栄」は「ますます栄える」という意味があり、万歳に近い言葉です。
強く生き抜いた人は、死という終わりを前に祝福されるにふさわしい人といえるでしょう。
タイトルの「芒に月」も、実り豊かな人生への祝福の意を表しているようです。
この言葉は全力で生きて死を迎えた大切な人へ贈る称賛の言葉であり、今を生きる自分を後押しする言葉として心に響きます。
よりよい生き方を見つめ直す人生の歌

椎名林檎の『芒に月』からは、自分自身と正面から向き合い、生死について真剣に考える大切さが読み取れました。
死は、考えるのを避けたくなるようなデリケートなテーマですが、死を考えるということは生き方を考えるということでもあります。
日本語の美しさを味わいながら、一度きりの人生をどのように生きていくのか考えてみてください。
