よみ:ちょうへんかようろうきょく 「さかもとりょうま」
長編歌謡浪曲 「坂本龍馬」 歌詞
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自分じぶんが選えらぶ道みちを行ゆく
坂本さかもと龍馬りょうまが歩あゆみ出だす
時代じだいの声こえを聞きいたなら
成なすべき事ことが見みえて来くる
大おおきな夢ゆめを描えがこうぞ
「乙女おとめ姉ねえやん、わしは人間にんげんには上うえも下したも無ないと思おもうちゅう。
あるがは、人間にんげんが大おおきいか、小ちいさいかじゃ。
わしはきっと、でかい男おとこになるぜよ」
月つきの名所めいしょは桂浜かつらはま
土佐とさから出いでて
江戸えどの桶おけ町まち千葉ちば道場どうじょう
剣けんを鍛きたえる日々ひびなれど
嵐あらしの前まえの世よの動うごき
黒くろ船ふね来きたるをきっかけに
時代じだいは進すすむ幕末ばくまつへ
おのれはいかに進すすもうか
折おりしも出会であった人物じんぶつこそ
幕府ばくふの軍艦ぐんかん奉行ぶぎょう並なみ 海舟かいしゅう 勝麟太郎かつりんたろう
龍馬りょうまよ 広ひろく世界せかいを見みろよ
国くにを開ひらいて貿易ぼうえきを
今いま動うごかねば
この国くに 日本にほんがだめになる
熱あつい教おしえに若わかき龍馬りょうまの眼めが開ひらく
「そうじゃ そうじゃ やっぱりそうじゃ。
攘夷じょういじゃ佐幕さばくじゃ、自分じぶんの藩はんがどうしたと、みんなぁ狭せまい了見りょうけんで騒さわぎゆうが、そりゃ違ちがうぜよ。時代じだいを知しるがじゃ。
日本にほんまるごとを考かんがえにゃいかん。わしらは、日本人にほんじんぜよ」
たしかに悟さとった龍馬りょうまの目めの前まえに
拡ひろがる夢ゆめは果はてしない
海舟かいしゅう仕込じこみで
海うみと軍艦ぐんかんしっかりと
知しってようそろ
歴史れきしの大おお海原うなばらに漕こぎ出だす
人並ひとなみ外はずれた度胸どきょうの男おとこ
龍馬りょうまはゆくぞ西東にしひがし
人ひとを説とくには理屈りくつでは足たりぬ
そこには利益りえきという
花はなを咲さかせて
共ともに喜よろこび 栄さかえる道みちを作つくるのだ
どんな身分みぶんであろうとも
会あう人ひと皆みなが
皆みなが龍馬りょうまに惹ひかれゆく
龍馬りょうまは、「神戸こうべ海軍かいぐん操練そうれん所じょ」、及および、海舟かいしゅうの「海軍かいぐん塾じゅく」設立せつりつのために大おおいに働はたらき、塾頭じゅくとうに任命にんめいされ、海舟かいしゅうの使者ししゃとして各地かくちを奔走ほんそう。人ひとに会あい、人ひとを動うごかした。薩摩さつまの大だい南洲なんしゅう西郷さいごう隆盛たかもりにも初はじめて会あった。
やがて操練そうれん所じょと塾じゅくが廃止はいしとなったのちの慶応けいおう元年がんねん、龍馬りょうまは長崎ながさきに「亀山社中かめやましゃちゅう」を作つくった。これは、日本初にほんはつの"株式かぶしき会社がいしゃ"ともいえる。そこに働はたらくのは主おもに操練そうれん所じょ出身しゅっしんの若者わかものたち。この社中しゃちゅうは、薩摩さつま藩はんなどからの援助えんじょによる資金しきんによって商あきないをし、人ひとを育そだてた。
そしてまた、この社中しゃちゅうを作つくった龍馬りょうまの目的もくてきのひとつは、薩摩さつま藩はんと長州ちょうしゅう藩はんに同盟どうめいを結むすばせ、幕府ばくふを倒たおし、朝廷ちょうていの権威けんいを回復かいふくさせ、新あたらしい日本にっぽんを作つくることであった。
のちに「亀山社中かめやましゃちゅう」は土佐とさ藩はんの援助えんじょとなり、「海援隊かいえんたい」と名なを変かえる。
この間かん、国くにの歴史れきしは動うごいていた。政変せいへん、禁門きんもんの変へん、幕府ばくふによる長州ちょうしゅう征伐せいばつによって、長州ちょうしゅうはあわれ窮地きゅうちにあり。
時ときは熟じゅくしぬいていた。薩長さっちょうの同盟どうめいは急いそがれた。
慶応けいおう元年がんねん五ご月がつになって、龍馬りょうまは西郷さいごう、小松こまつ帯刀たてわきと会あい、更さらに、桂かつら小五郎こごろうとも会あって、薩長さっちょう和解わかいについて話はなし合あう。
そして龍馬りょうまは、長州ちょうしゅうが幕府ばくふの命めいで武器ぶきを調達ちょうたつできないことから、
亀山社中かめやましゃちゅうを仲買なかがい役やくとし、長崎ながさきグラバー商会しょうかいから薩摩さつま藩はん名義めいぎで武器ぶきと軍艦ぐんかん買かい入いれて、それを長州ちょうしゅうに転売てんばいす。
長州ちょうしゅうから薩摩さつまへは、兵糧米ひょうろうまいを送おくるように提案ていあんし、長州ちょうしゅうが快諾かいだくす。
さてもさても龍馬りょうまの働はたらきにより、薩長さっちょうの同盟どうめいへの道みちは確たしかに整ととのったり。
慶応けいおう二に年ねん一いち月がつ、西郷さいごう隆盛たかもりと桂かつら小五郎こごろうはいよいよ会あった。
しかし、薩長さっちょう同盟どうめい締結ていけつにたどり着つけない。
その原因げんいんは、西郷さいごうと桂かつらの両人りょうにんが抱かかえて悩なやむ、藩はんと藩はんとの哀かなしい過去かこと憤いきどおり。
いざや、それを断たち切きって、この同盟どうめいの申もうし入いれ、どちらが先さきに動うごくのか。
だが、時ときは経たてどもお互たがいに、心こころを解とかず、言いい出ださず、さてこそこの大切たいせつな同盟どうめい話ばなし、崩くずれ去さるかと見みえた時とき、龍馬りょうまはそれぞれの元もとへ走はしった。
「小五郎こごろう!いつまで自分じぶんの藩はんの事ことばっかりに縛しばられゆうがじゃ。
わかっちゅうろう。大事だいじなのは、この先さきの日本にっぽんぜよ」
「西郷さいごう君くん、桂かつらも、この国くにの行ゆく先さきを思おもうちゅう心こころは同おんなじじゃ。
さ、決断けつだんしとうせ。時ときこそ、時ときこそ今いまぜよ!」
桂かつらに迫せまり
大だい南洲なんしゅうに迫せまる龍馬りょうまの勢いきおいは
天てんから使命しめいを授さずかって
地上ちじょうに降おりた龍りゅうのよう
火ひを吐はく言葉ことばが胸むねをうつ
熱あつい思おもいで両雄りょうゆうの心こころを変かえて
薩長さっちょう同盟どうめいとうとう成なして
坂本さかもと龍馬りょうまが鮮あざやかに
国くにの夜明よあけを呼よぶ姿すがた
すぐに起おこった寺田てらだ屋や事件じけんを潜くぐり抜ぬけて、
そして、のちに、船中八策せんちゅうはっさくを立たてて
大政奉還たいせいほうかんを説といて
その後ごの新しん政府せいふの
綱領こうりょう八はっ策さく表あらわして
あとは皆みんなに任まかせたぞ
わしは世界せかいの海援隊かいえんたいをやるのだと
言いった笑顔えがおの爽さわやかさ
妻つまのおりょうの惚ほれた男おとこぶり
夢ゆめの途中とちゅうでこの世よを去さるが
続つづきはきっと誰だれかがやるさ
わしは天翔あまかけ波頭はとうに立たって
日本にほんの国くにを見守みまもろう
龍馬りょうまの心こころは生いきている
坂本さかもと龍馬りょうまが歩あゆみ出だす
時代じだいの声こえを聞きいたなら
成なすべき事ことが見みえて来くる
大おおきな夢ゆめを描えがこうぞ
「乙女おとめ姉ねえやん、わしは人間にんげんには上うえも下したも無ないと思おもうちゅう。
あるがは、人間にんげんが大おおきいか、小ちいさいかじゃ。
わしはきっと、でかい男おとこになるぜよ」
月つきの名所めいしょは桂浜かつらはま
土佐とさから出いでて
江戸えどの桶おけ町まち千葉ちば道場どうじょう
剣けんを鍛きたえる日々ひびなれど
嵐あらしの前まえの世よの動うごき
黒くろ船ふね来きたるをきっかけに
時代じだいは進すすむ幕末ばくまつへ
おのれはいかに進すすもうか
折おりしも出会であった人物じんぶつこそ
幕府ばくふの軍艦ぐんかん奉行ぶぎょう並なみ 海舟かいしゅう 勝麟太郎かつりんたろう
龍馬りょうまよ 広ひろく世界せかいを見みろよ
国くにを開ひらいて貿易ぼうえきを
今いま動うごかねば
この国くに 日本にほんがだめになる
熱あつい教おしえに若わかき龍馬りょうまの眼めが開ひらく
「そうじゃ そうじゃ やっぱりそうじゃ。
攘夷じょういじゃ佐幕さばくじゃ、自分じぶんの藩はんがどうしたと、みんなぁ狭せまい了見りょうけんで騒さわぎゆうが、そりゃ違ちがうぜよ。時代じだいを知しるがじゃ。
日本にほんまるごとを考かんがえにゃいかん。わしらは、日本人にほんじんぜよ」
たしかに悟さとった龍馬りょうまの目めの前まえに
拡ひろがる夢ゆめは果はてしない
海舟かいしゅう仕込じこみで
海うみと軍艦ぐんかんしっかりと
知しってようそろ
歴史れきしの大おお海原うなばらに漕こぎ出だす
人並ひとなみ外はずれた度胸どきょうの男おとこ
龍馬りょうまはゆくぞ西東にしひがし
人ひとを説とくには理屈りくつでは足たりぬ
そこには利益りえきという
花はなを咲さかせて
共ともに喜よろこび 栄さかえる道みちを作つくるのだ
どんな身分みぶんであろうとも
会あう人ひと皆みなが
皆みなが龍馬りょうまに惹ひかれゆく
龍馬りょうまは、「神戸こうべ海軍かいぐん操練そうれん所じょ」、及および、海舟かいしゅうの「海軍かいぐん塾じゅく」設立せつりつのために大おおいに働はたらき、塾頭じゅくとうに任命にんめいされ、海舟かいしゅうの使者ししゃとして各地かくちを奔走ほんそう。人ひとに会あい、人ひとを動うごかした。薩摩さつまの大だい南洲なんしゅう西郷さいごう隆盛たかもりにも初はじめて会あった。
やがて操練そうれん所じょと塾じゅくが廃止はいしとなったのちの慶応けいおう元年がんねん、龍馬りょうまは長崎ながさきに「亀山社中かめやましゃちゅう」を作つくった。これは、日本初にほんはつの"株式かぶしき会社がいしゃ"ともいえる。そこに働はたらくのは主おもに操練そうれん所じょ出身しゅっしんの若者わかものたち。この社中しゃちゅうは、薩摩さつま藩はんなどからの援助えんじょによる資金しきんによって商あきないをし、人ひとを育そだてた。
そしてまた、この社中しゃちゅうを作つくった龍馬りょうまの目的もくてきのひとつは、薩摩さつま藩はんと長州ちょうしゅう藩はんに同盟どうめいを結むすばせ、幕府ばくふを倒たおし、朝廷ちょうていの権威けんいを回復かいふくさせ、新あたらしい日本にっぽんを作つくることであった。
のちに「亀山社中かめやましゃちゅう」は土佐とさ藩はんの援助えんじょとなり、「海援隊かいえんたい」と名なを変かえる。
この間かん、国くにの歴史れきしは動うごいていた。政変せいへん、禁門きんもんの変へん、幕府ばくふによる長州ちょうしゅう征伐せいばつによって、長州ちょうしゅうはあわれ窮地きゅうちにあり。
時ときは熟じゅくしぬいていた。薩長さっちょうの同盟どうめいは急いそがれた。
慶応けいおう元年がんねん五ご月がつになって、龍馬りょうまは西郷さいごう、小松こまつ帯刀たてわきと会あい、更さらに、桂かつら小五郎こごろうとも会あって、薩長さっちょう和解わかいについて話はなし合あう。
そして龍馬りょうまは、長州ちょうしゅうが幕府ばくふの命めいで武器ぶきを調達ちょうたつできないことから、
亀山社中かめやましゃちゅうを仲買なかがい役やくとし、長崎ながさきグラバー商会しょうかいから薩摩さつま藩はん名義めいぎで武器ぶきと軍艦ぐんかん買かい入いれて、それを長州ちょうしゅうに転売てんばいす。
長州ちょうしゅうから薩摩さつまへは、兵糧米ひょうろうまいを送おくるように提案ていあんし、長州ちょうしゅうが快諾かいだくす。
さてもさても龍馬りょうまの働はたらきにより、薩長さっちょうの同盟どうめいへの道みちは確たしかに整ととのったり。
慶応けいおう二に年ねん一いち月がつ、西郷さいごう隆盛たかもりと桂かつら小五郎こごろうはいよいよ会あった。
しかし、薩長さっちょう同盟どうめい締結ていけつにたどり着つけない。
その原因げんいんは、西郷さいごうと桂かつらの両人りょうにんが抱かかえて悩なやむ、藩はんと藩はんとの哀かなしい過去かこと憤いきどおり。
いざや、それを断たち切きって、この同盟どうめいの申もうし入いれ、どちらが先さきに動うごくのか。
だが、時ときは経たてどもお互たがいに、心こころを解とかず、言いい出ださず、さてこそこの大切たいせつな同盟どうめい話ばなし、崩くずれ去さるかと見みえた時とき、龍馬りょうまはそれぞれの元もとへ走はしった。
「小五郎こごろう!いつまで自分じぶんの藩はんの事ことばっかりに縛しばられゆうがじゃ。
わかっちゅうろう。大事だいじなのは、この先さきの日本にっぽんぜよ」
「西郷さいごう君くん、桂かつらも、この国くにの行ゆく先さきを思おもうちゅう心こころは同おんなじじゃ。
さ、決断けつだんしとうせ。時ときこそ、時ときこそ今いまぜよ!」
桂かつらに迫せまり
大だい南洲なんしゅうに迫せまる龍馬りょうまの勢いきおいは
天てんから使命しめいを授さずかって
地上ちじょうに降おりた龍りゅうのよう
火ひを吐はく言葉ことばが胸むねをうつ
熱あつい思おもいで両雄りょうゆうの心こころを変かえて
薩長さっちょう同盟どうめいとうとう成なして
坂本さかもと龍馬りょうまが鮮あざやかに
国くにの夜明よあけを呼よぶ姿すがた
すぐに起おこった寺田てらだ屋や事件じけんを潜くぐり抜ぬけて、
そして、のちに、船中八策せんちゅうはっさくを立たてて
大政奉還たいせいほうかんを説といて
その後ごの新しん政府せいふの
綱領こうりょう八はっ策さく表あらわして
あとは皆みんなに任まかせたぞ
わしは世界せかいの海援隊かいえんたいをやるのだと
言いった笑顔えがおの爽さわやかさ
妻つまのおりょうの惚ほれた男おとこぶり
夢ゆめの途中とちゅうでこの世よを去さるが
続つづきはきっと誰だれかがやるさ
わしは天翔あまかけ波頭はとうに立たって
日本にほんの国くにを見守みまもろう
龍馬りょうまの心こころは生いきている