大森靖子の「流星ヘブン」
アカウントを消して 仮想的に自殺する
自撮りは私の遺影 2ギガのムービーは走馬灯
以上は特に印象的な歌詞だ。「アカウント」とは様々なSNSのアカウントのことを指すのだろう。
ここで「仮想的に自殺する」のは数多の少女たちだ。
SNS世代などと言われるように、10代~20代の女子(もちろん男子も)はツイッターなどのSNSに依存しながら生きている。
そして、アカウントがあることがむしろ当たり前なのだ。
その当たり前に存在するアカウントを消すことが、「仮想的」な「死」につながる、という。
確かに、アカウントを消すとそこでの人間関係は一度リセットされる。
「仮想」というのは恐ろしい概念だけれど、ネットの世界ではすぐに「アカウントを消す」ことが可能だ。
現実世界では簡単に自分を消すことは当然できない。
気軽であるだけに、アカウントを消す行為を「自殺」なんて言われると、はっとするし、少しドキドキしてしまう。
「死」という概念、そして「私」という自意識
続く「自撮りは私の遺影」という表現も、ポエミーでありつつもなんだか物悲しい。「自撮り」は今や普遍的かつ日常的な風景だろう。「仮想的な自殺」になぞらえた上での表現なのだろう、とは思うものの、やはり何か、はっとさせられるし、悲しくもなってくる。
かわいく写りたかったり、きれいに写りたかったり、自分を良く見せようとするのが「自撮り」のひとつの側面だ。
ある意味「人生で一番輝いてる私」の表現なのに、それが「遺影」になってしまうのは悲しい。
でも、インターネットという仮想空間の儚さを想えば、確かに「遺影」という表現はぴったりなのかもしれない。
この短い歌詞の中に、「死」という概念と、「私」という自意識が、見事に織り交ぜられて表されている。
少女たちの祈りを代弁した大森靖子「流星ヘブン」
SNS世代のツボを上手に押えた歌詞に、「流星」「ヘブン」とうい美しい言葉選び、そして静かでうっとりするようなメロディ。とてもエモいし、刹那的だ。「私」という言葉ひとつに込められた、様々な少女たちの祈りを、大森靖子は代弁しようとしているのではないだろうか。
だからこそ「アカウントを消して仮想的に自殺する」なんて歌詞が生まれるのだと思うのだ。
その少女一人一人が「流星」のようにあっという間に過ぎていく何かに例えられ、聴いていて切なくなってくる。
インターネットの渦の中で、私たちは何度でも死を体感できるのだ。
儚くも力強いギターの音やドラマティックに展開する曲調も、「流星」という言葉に収められてしっくりくる。
一見美しいだけのキラキラとした曲だが、根っこには「死」「仮想的自殺」「SNSの孤独」というずっしりとしたテーマが見える。
聴けば一緒に口ずさみたくなるような、そんな曲でもある。
SNSにあまり肩入れしすぎないで、疲れてしまったら、そっと『流星ヘブン』を聴いてみて欲しい。
Txt:辻瞼