没後なお愛され続ける名曲
尾崎豊は1983年にレコードデビューしたシンガーソングライター。92年4月に急逝するまで、数多くの作品を生み出し、当時の若者を中心に支持された。
『僕が僕であるために』はデビューアルバム『十七歳の地図』に収録され、ライブでもたびたび演奏されるなど根強い人気を誇った。Mr.Childrenなど人気アーティストらのカバーにより、存命中の尾崎豊を知らない世代にも歌い継がれ、彼の没後なお楽曲は生き続けている。
『僕が僕であるために』…人生のテーマともいえる自我・自律。純粋がゆえ様々な葛藤や不安のなかにいた10代の尾崎豊は「僕が僕であるために」どう生きることを決めたのだろうか。歌詞をひも解くと、彼が求めた「強さ」が見えてきた。
尾崎豊が求めていた世界とは
僕が僕であるために
尾崎豊は音楽を通して自問自答していた。彼が残した歌詞には、幼さを感じるほどにまっすぐで純粋な人柄がよく表れている。尾崎豊は、優しく濁りのない、誠実な世界を夢見ながら、そうはいかない現実を憂いていた。
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心すれちがう
悲しい生き様に
ため息もらしていた
だけど この目に映る
この街で僕はずっと
生きてゆかなければ
≪僕が僕であるために ~MY SONG~ 歌詞より抜粋≫
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人間はみなそれぞれ違うもの。生き方もそれぞれだ。そんなことは頭ではわかっていても、分かり合えないたびにいちいち傷つき、悲しむ。それも人間だ。
尾崎豊もまた、些細なすれ違いに心を痛めていた。「ため息」「生きてゆかなければ」という言葉には、あきらめにも近い感情がうかがえる。
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心すれちがう
悲しい生き様に
ため息もらしていた
だけど この目に映る
この街で僕はずっと
生きてゆかなければ
人を傷つける事に
目を伏せるけど
優しさを口にすれば
人は皆 傷ついてゆく
≪僕が僕であるために ~MY SONG~ 歌詞より抜粋≫
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誰しも人を傷つけたくはない。そもそも優しいことはいいことであるはずで、本来人を傷つけるものではないはずだ。
だが悲しいかな「優しさ」すらも、人それぞれで価値観は異なる。すれ違うことがある。自分が思う優しさはときに「押しつけ」や「偽善」となり、思いがけず人を傷つけてしまう。優しくされたいと勝手に期待をしては、裏切られることだってある。
本当に、ウンザリするほど難しいのが人生だ。
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僕が僕であるために
勝ち続けなきゃならない
正しいものは何なのか
それがこの胸に解るまで
僕は街にのまれて
少し 心許しながら
この冷たい街の風に
歌い続けてる
≪僕が僕であるために ~MY SONG~ 歌詞より抜粋≫
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尾崎豊はそんな難しい世界で、自分を律しなければならない、自分だけは不確かであってはならない、流されてしまいたくないと感じていたのだろう。
誘惑、常識、自分を自分でなくさせるもの…。それらに勝ち続けなければ、アイデンティティーは失われてしまう。自分がなくなってしまう。彼はそんな風に考え、それを恐れていたのだ。
『僕が僕であるために』というストレートなタイトルには、そんな決意を感じる。
尾崎豊は「僕が僕であるために」勝ち続ける、いや「勝ち続けなきゃならない」というもっとも難しい道を選んだ。勝ち続けるということは、すなわち一度たりとも負けてはならないということだ。「~なきゃならない」という言葉の選択に、強迫的なまでの自律への想いがうかがえる。
勝つとは?負けるとは?それすら曖昧なこの世界において「勝ち続ける」ことを選んだ尾崎豊。それも「正しいもの」という、永遠に見つからないかもしれないものが見つかるまで。
どこまでも難しい課題だ。いったいどれほどの人間が、死ぬまでに「自分」を「正しいもの」を見つけられるというのだろう。
尾崎豊はそうして、ときには現実を受け止め心に折り合いをつけながら、自分自身を探すために歌い、そして探し続けていたのだろう。
「正しいものはなんなのか」
『僕が僕であるために』「正しいものはなんなのか」自我、自立、自律という人間の永遠のテーマに、彼はどんな答えを見つけたのだろう。
楽曲のなかで、その答えは明かされてない。果たして尾崎豊は「僕が僕であること」を失わずに生き抜いたのだろうか。彼が、この不確かな世の中でせめて揺らぐことのない「自分らしさ」をなくすまいとしていたことは確かだ。
勝ち続ければきっと、そのたびに強くなるだろう。強くなれば、ほかの誰かの意見に揺らぐことはない。迷わず、怖がらずに「自分」を貫くことができる。
尾崎がほしかったのは「正しいものはなにか」という誰かの答えじゃない。自分が思う「正しいもの」を「正しい」と言える「強さ」だったのだ。
2番の歌詞では、別れゆく「君」にも同じことを求めている。
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慣れあいの様に暮しても
君を傷つけてばかりさ
こんなに君を好きだけど
明日さえ
教えてやれないから
≪僕が僕であるために ~MY SONG~ 歌詞より抜粋≫
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そして「君が君であるために」と続く。
愛する者同士でも、分かり合えないことはある。心すれ違うこともあるだろう。自分のこともよく分からぬままで、君の明日など示せない。保証もできない。幸せにしてやりたいけどその術がわからない。弱い自分では「君」を守れない、そんな想いが読み取れる。
些細なすれ違いや若さゆえの弱ささえ「傷つけてばかり」と思うのならばもう、二人は一緒にはいられない。
そうして別れゆく「君」にも、この世界で生きてゆける強さを、負けない強さを、確かな自分を持って生きてほしいと、別れ際に願いを込めて「君が君であるために」と歌うのなら。
「こんなに君を好きだ」とストレートに言えるほどの深い愛は、本物だったのだ。
尾崎豊は今も私たちに問いかける
曖昧で不確かで、今日の正義が明日の悪になるようなこの世界を生きるには、尾崎豊は不器用で繊細すぎる。そして純粋すぎた。
人はみなまっさらで産まれてくる。誰だって、美しいものや正しいものを、誰の目も声も気にせず「美しい」「正しい」と言いたい。自分の信じた正義を守りたい。
だけど、人は流される。いつのまにか「自分らしさ」を見失う。見失ってもなお、自分で自分を見て見ぬ振りしている。流される心地よさに慣れてしまう。
尾崎は違う。あきらめや嘆きを隠さず、人間本来の姿を、自分の正義を貫きたいと願っている。それが出来ない自分を憂い、迷い、それでも決して流されまいと両足で踏ん張っている。
『僕が僕であるために』は、まさにそんな曲だ。
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君が君であるために
勝ち続けなきゃならない
正しいものは何なのか
それがこの胸に解るまで
≪僕が僕であるために ~MY SONG~ 歌詞より抜粋≫
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「僕が僕の正しさをこの世界で信じられるようになるためには、もっと強くならなければならない」
この楽曲は尾崎豊が自分を、そして曖昧な世界で日和見的にびくびくしている若者を、奮い立たせるためのメッセージだったのではないか。
そう。私たちには推測することしかできない。答え合わせをしようにも、尾崎豊はもういないから。
正答のない問いは、永遠に投げかけられたままだ。私たちは自分の足でこの複雑な世界を生き抜き、尾崎豊の楽曲を聴きながら、自分なりの答えを見つけるしかないのだ。
TEXT シンアキコ