令和元年は、いわば新時代のスタートライン。この時代のスタートラインで聴く平成の歌姫、浜崎あゆみの『M』は新たな彼女の意志を伝える歌となる。
新時代の今に聴く『M』から読み取れる“令和を駆け抜けるayuからのメッセージ”を考察したい。
“今”このタイミングで聴く「M」は悲恋の歌ではない。
浜崎あゆみ。平成の歌姫と呼ばれる所以は、間違いなく平成という時代に爆発的な人気を席捲した事にある。
ayuの歌は、聴く人の心の深い所に突き刺さる。その深く深く共感できる歌詞たちは、私たちの心にいつも寄り添ってくれたのだ。だから、彼女が平成に残した楽曲は、令和になっても色あせないのだ。
そんな彼女が送り出した名曲の中に悲恋の歌として人気を得た曲がある。
ayuと共に平成を生きた世代ならば、きっとこれだけでピンとくるかもしれない…。
また、曲中で描かれる美しくも悲しい情景に、自分の恋や別れを重ねて涙した経験さえもっている人もいるだろう…。
そう楽曲とは、美しい悲恋の曲『M』だ。
たくさんの心に響いた名曲
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‘MARIA’愛すべき人がいて
キズを負った全ての者達
≪M 歌詞より抜粋≫
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様々な愛の理由から、悲しい想いをした人の心の傷に届くように、手紙の宛名の様な歌詞が『M』の冒頭にはある。
当然ながら、人を愛する事・愛し続ける事は素晴らしい事だ。しかしそれは、苦しい時に深い傷すら負う事だってある。
この『M』で歌われる「MARIA」という存在。当時ayuは“聖母と呼ばれ、強く気高いMARIAだって、きっと愛に泣いたりしたはず”と語っていた。
その意味は、どんな人だって愛の前では泣いて傷ついて苦しんだりしている。という事であり、“ayu自身も例外ではない”という事を表している。
彼女は“自分の経験した事しか歌にしない”と公言している事から、その意味が汲み取れる。
『M』がリリースされた当時は、歌詞から伝わる意味合いから“運命の恋”“悲恋”“愛に対する切ない願い”…壊れてしまったボロボロの恋を、独り大事に抱えている人が、まるでその孤独に寄り添うayuという同士を見つけ安堵した様に。
「愛すべき人」のいる、たくさんの人の心に“共感”となって響いた。
「愛すべき人がいて」「キズを負った」と言うのは、一過性のものではない。一生その傷を背負う、という意味だ。
愛すべき人をただ愛しているだけなのに、一生のキズを追う。これ程に悲しい恋はない。
その『M』のリリースから20年。時代は平成から令和に変わり、ayuの活躍もまた、時代をまたぎ軌跡となった。
彼女の20年には紆余曲折が幾度となく訪れていた。喜ばしいも、悲しい事も目立った様に想う。
『M』は、そんなayuが歩いた時代の中で出逢った悲しみを吹き飛ばすために、悲恋の歌から、“過去との決別”の歌として、令和の時代を鮮やかに色付けしようとしている。
ayuが本当に言いたい事を知るために、MVを見て欲しい。
ayuは、楽曲に込めたメッセージが聴き手に届きやすくなるように、様々なヴィジュアルでアプローチしてくる。
MV、CDジャケット、衣装にライブ演出。そして、自身が歌う時に表情や仕草までもでメッセージを表現する。
その表現力は素晴らしく、歌詞で感じた感動を超えて心に直接語りかけてくる。
ayuというアーティストは、“1つ”に囚われている様に見えて。実はそうではないのだ。彼女が本当に表現したい事、伝えたい事は、その時の1つを見ているだけでは完成しない。
彼女が表現するすべてを拾い集めて、やっと真実が見えてくる。彼女が言いたい事は、いつだって単純ではないのだ。
それを踏まえて、“今”『M』を聴くならば『M』の“MV”を見て欲しい。
ayuが表現する2つの象徴。
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今日もまたこの街のどこかで
別れの道 選ぶふたり
静かに幕を下ろした
‘MARIA’愛すべき人がいて
時に 強い孤独を感じ
だけど 愛すべきあの人に
結局何もかも満たされる
‘MARIA’愛すべき人がいて
時に 深く深いキズを負い
だけど 愛すべきあの人に
結局何もかも癒されてる
≪M 歌詞より抜粋≫
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『M』のMVには、“2人”のayuが登場する。
1人は、MARIAであるayu。そしてもう1人は、ayu。この2人のayuが示すのは、愛の象徴と夢を貫き強く生きる象徴だ。
もっと言えば「愛すべきあの人に、結局何もかも満たされ、癒されている」ayuと、『M』が歌い語る「別れの道を選ぶふたり、静かに幕を下ろした」後に、“運命”を懸命に生き抜くayu、だ。
MARIAに扮したayuが、語る(歌う)事はない。ただ気高くそこに立って、微笑みを讃えている。
それは、「これが最後の恋であるように」と、声に出来ない願いを受け止めている。そして、あえて語らない事、何もしない事でキズを労わり守っている様に見える。
その真逆に存在するのが、強い意志を瞳に讃え、力強く愛と悲しみを語る(歌う)ayuだ。こちらのayuは、MARIAのayuとは対照的で“強さ”だけで立っている。
MARIAのayuが慈悲の愛で立っているのなら、歌うayuはあらゆる痛みを強い意志だけで跳ね除け、「キズを負った全ての者達」を自分の身をていして庇おうと必死に立っている。
2人の共通点は「愛すべき人」がいる事であり、違いは「愛すべき人」の“愛し方”だ。
どんな事があっても消えなかったayu。
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理由なく始まりは訪れ
終わりはいつだって理由をもつ...
≪M 歌詞より抜粋≫
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『M』の最後の一節だ。歌詞だけで解釈するならば、どんな運命を感じた恋でも別れてしまう時には、何かしらの理由がある。
別れは仕方がない事だったのだ、と若干の諦めを諭すように聴こえる。
しかし、MVの最後を見ると受け取り方がまるで変わる。
「終わりはいつだって理由をもつ」からこそ、また始めて行けるのだ。と、受け取れるのだ。
それは、MARIAが消えてayuは消えないからだ。残ったayuは真っ直ぐ前を見つめている。その目は、哀しみを秘めながら未来を見ている様に見えるのだ。
MARIAは、何も語らず(歌わず)消えていった。
それは、終わりを迎え、その終わりをただ何もせず受け入れたから、何も始まらなかったとも取れる。求められるイメージに応えるだけで、変わらない存在では“続かなかった”のだ。
残ったayuが表現しているのは、“歌い(表現する)続ける事”。
ayuが『M』を通して、新時代に示した強い意志…
ayuが産んだ名曲たちは、ayuがどんな事があっても“歌う事を辞めなかった”から、私たちの人生の中の様々な感情に寄り添ってくれた。
平成の歌姫と呼ばれるayu。
確かに、一時代を駆け上がり当時よりはその速度にブレーキをかけている様に思う。
しかし“今”このタイミングで『M』を聴けば、消えたMARIAは過去のayuとなる。生き残ったのは、変わる事を恐れずに突き進んだayuだ。
ayuは、令和という新時代に平成という過去を捨て“歌い続ける”と強い意志を示したのだ。
TEXT 後藤かなこ