1stアルバム「狂言」収録!ボカロP伊根とのコラボ曲
名だたるアーティストたちとコラボしたAdoの1stアルバム『狂言』。Adoの名を世に知らしめたデビュー曲『うっせぇわ』、MV再生回数1億回超えの人気曲『踊』、などの人気シングル曲に加え、新曲7曲が収録されています。
その新曲の1つが今回考察する『過学習』です。
『ルーセ』や『ナイトフォール』で知られる、有名ボカロP伊根の書き下ろし楽曲になります。
Ado自身も少年誌やテレビ番組で自ら紹介するほど伊根の楽曲のファンだそうで、初めて聴いた『ルーセ』のカッコよさには衝撃を受けたそう。
そんな伊根が手がけた『過学習』はAdoという現象をイメージして心の葛藤を表現した曲とされています。
また、2022年3月に公開されたMVでは、外側の自分と内側の自分との葛藤が描かれており、「Adoの素晴らしさを感じさせる楽曲だ」と話題になっています。
それでは、そんな「心の葛藤」がテーマの『過学習』の歌詞を考察していきます。
葛藤!内側の自分 vs 外側の自分
先ほど紹介した通り『過学習』では「内側の自分と外側の自分との葛藤」が表現されています。
「心の中の自分」と「表に出している自分」が一致しない状態を経験した人は多いのではないでしょうか。
どちらが本当の自分なのかと悩むこともあるかもしれません。
曲の序盤では、そんな「内と外との葛藤」が特に強く感じられます。
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救ってよ、アナタが
見えないものが見えて気づいていく頭が
誰にでもなろうとする
それは自供か? "口ばっか愚痴ばっか"か?
"憂いて泣きそう"か?
眠らずにいたって逃げられん内省
気づいてるか、アナタは?
縋ってんのは何だ?
正義の体、見下す眼
"暇で空っぽ"なだけだろ
救ってやんなきゃな、報いてやったらば
アナタ知ってる? "正しい"って
≪過学習 歌詞より抜粋≫
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注目したいのは、クォーテーション(“”)が付いた「口ばっか愚痴ばっか」「憂いて泣きそう」「暇で空っぽ」です。
クォーテーションで括られたこれらの毒っ気の強い要素は「内側の自分からのささやき」を表していると考えられます。
どうやらこの歌の主人公は、他人に合わせて何者かになろうとしたり正しそうなことに縋ったりと、自分を見失いつつあるようです。
そんな主人公(外側の自分)に対して、心の中のもう一人の自分が毒を吐いているような構図が想像できます。
社会に適応する上で、周囲に合わせることや体面を保つことはある程度必要です。
しかし、“どこか自分らしさを失っている気がする”という感覚を持つ人は、それなりに多いことと思います。
そんな「内と外とのズレや葛藤」を、不穏な雰囲気のささやきで表現しているのかもしれません。
歌い手としての葛藤
以降の歌詞は歌い手であるAdoとの親和性が高くなっていきます。
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もう全部聞いてらんないわ
この歌詞書いたのは誰なんか?
自分以外が言うようだ
これは誰の思い
私の私にアナタ方が何をできるって?
ただ応えが欲しいんなら語らせよう
まあまあ、誰も見てねえが
≪過学習 歌詞より抜粋≫
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歌い手の活動では、プロデューサーが作り上げた楽曲を歌声で表現することが多いです。
もちろんAdoも例外ではありません。
アルバム『狂言』を見てみると、どの曲でも作詞作曲者が別に存在しています。
「自分以外が言うようだ」「これは誰の思い」といった歌詞は、自分ではなく作り手の歌を歌うことに対する苦悩を表現しているのかもしれません。
また、MVでは主人公がこちらを見下ろす映像とともに「私の私にアナタ方が何をできるって?」という歌詞が提示されます。
ここでの「アナタ方」は、全リスナーを指していると解釈してみました。
「自らの楽曲を愛してくれるリスナーであっても、歌い手の心の奥と繋がることはできない」というある種の諦めが感じられるようです。
次の「誰も見てねえ」のに「語らせよう」というのは、自分の中だけで「私の私」(内側の自分)のささやきを処理しようという妥協なのかもしれません。
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「もう何も決めらんないわ」
「今グダってんは誰なんか?」
晴らすべきなら
「私たちは」で声をあげんだよ
私の私にアナタだったら何ができるって?
ただ応えが欲しいんなら測らせよう
まあまあ、誰も見てねえが
≪過学習 歌詞より抜粋≫
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「もう何も決めらんないわ」「今グダってんは誰なんか?」という歌詞から察するに、主人公は未だに自分が定まっていないようです。
しかし、内と外の葛藤を晴らすには両者を統合した「私たちは」で声を届けるのだ!という1つの決意のような一節もあります。
わずかに希望が見えるフレーズです。
続くサビでは、「私の私」(内側の私)に作り手ができることは何か?と尋ねていると解釈できそうです。
1番でのリスナーへの問いかけと同様「結局は何もできないのだ」と言いたいのかもしれません。
それでも最後の意思は「測らせよう」です。
これは「我々の作品の評価はリスナーに任せればいい」という、歌い手から作り手への前向きな呼びかけかのように感じられます。
ただ、いずれにせよ歌い手の心の奥は誰の目にも触れることはないのでしょう。
そんな諦めが「まあまあ、誰も見てねえが」で表現されているのではないでしょうか。
続いて、終盤の歌詞です。
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気づいてんだったな
主体性とは何だ
正義の命に目眩んで
底まで空っぽだ
もう何も見てらんないわ
塞ぐカーテン 箱ん中
ここからアナタに聞こえるよう
≪過学習 歌詞より抜粋≫
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ここで「主体性」という言葉が登場します。
アーティストと言えど、歌い手には「自身の心を空っぽにして作り手の要求だけに集中しなければならない瞬間」もあることでしょう。
そんな主体性の危うさに気づきながらも、主人公は「塞ぐカーテン箱ん中」で歌うのです。
光の少ない小さな空間で「アナタに聞こえるよう」声を録り続ける歌い手の姿が目に浮かびます。
そしてラストです。
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私の私に私だったら何ができる
ねえ、まだ応えが欲しいんなら揶揄えよ
まあまあ、誰も見てねえが
≪過学習 歌詞より抜粋≫
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「私の私」(内側の自分)に対して「私」(外側の自分)に何ができるのか。
そしてこの問いに畳みかける形で「応えが欲しいんなら揶揄えよ」と、強気で生意気な「私の私」を外側の「私」が煽っているようです。
2番では「私たちは」で声を届けるのだ!という一種の希望が見られました。
これは内と外との協力や和解を思わせるフレーズです。
よって、ラストで外側の「私」が「揶揄えよ」と煽ったのは、内側の自分の強みを受け入れ、その力に期待していることの表れなのではと考えられます。
たとえ誰にも見られないとしても、こうなるともう人として無敵なのかもしれません。
「過学習」に込められた意味
最後に、『過学習』という曲名に込められた意味について考えたいと思います。
そもそも「過学習」という言葉は機械学習や統計学で用いられるものです。
一言で表すと「手元のデータを忠実に学習しすぎて正確な予測ができなくなること」。
簡単な例を挙げると、「サイコロを3回投げて3回とも3が出た」というデータから「このサイコロは3しか出ない」と予測するようなイメージです。
この過学習を「歌い手の葛藤」に照らし合わせて考えてみましょう。
あくまで一例ですが、「この歌い手の歌はどれも他人(プロデューサー)によって作られた曲だ」という事実から「この人はこれからも他人の歌しか歌わないんだろう」という過学習が世間一般に生じるかもしれません。
歌い手の中には「自分の本心」と「歌っている言葉」とのズレに悩み、葛藤している人もいます。
ここに世間による過学習が加わると、その葛藤による精神的消耗はより大きなものになるでしょう。
そういった状況に物申すために『過学習』という曲名を付けたと解釈すると、伊根によるAdoへの思いやりが感じられて素敵ですね。
さらに、MVで示される『過学習』の文字にも意味が隠されている可能性があります。
MVでは「過」の左上の点と「習」の「白」のはらいがデザインされていません。つまり、どちらも一画だけ欠けた不完全な字体となっています。
一説によると、「過」の本来の意味は「重要な場所を通るために災いを祓う」で、「習」の方は「祈りの効果を促進させる」です。
加えて、曲中には以下のように「寄る辺ない呪い」という歌詞が2度登場します。
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この街の語り部に混ざって歩いていこうぜ
寄る辺ない呪いを祓う前に
≪過学習 歌詞より抜粋≫
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この街は優しくて良い
無関心で進もうぜ
寄る辺ない呪いを呪う前に
≪過学習 歌詞より抜粋≫
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これは、Adoが様々なアーティストとコラボしている一方、はっきりした「個の居場所」が出来上がっていないことを暗示しているのかもしれません。
歌詞では歌い手としての「寄る辺ない呪い」に言及し、文字デザインでは呪いを遠ざける意味合いの「過」と「習」が不完全になっているという点は何か匂います。
もしかしたら「呪いを祓う」ことも「呪う」こともせず、淡々と歩を進めていこうぜ!という「歌詞とイラストがリンクした歌い手への激励」が隠されているのかもしれません。
そう考えると、伊根のみならずMVのイラストを手がけた「ア行」さえも歌い手の葛藤を見抜き、理解し、Adoをリスペクトしていたのではと想像が膨らみますね。
Adoは皆から愛されていた
歌い手の心の葛藤が垣間見えた楽曲『過学習』。曲名からの考察は少々強引でしたが、Adoが多くのプロデューサーや、クリエイターに愛されながらキャリアを積んでいっていることは間違いありません。
2022年4月に開催された自身初のワンマンライブ「喜劇」は大成功を収め、同年8月にはさいたまスーパーアリーナにて2ndライブの開催が予定されています。
Adoの勢いはまだまだ止まりません。
これからも内に秘める「私の私」と上手に付き合い、ときにぶつかり、Adoらしい楽曲を生み出していってほしいですね。