童謡の先駆け時代
いわゆる「童謡」は江戸時代から大正初期まで「子どもの歌」という概念でした。
しかし大正中期頃、夏目漱石門下の鈴木三重吉によって「子どもに向けて創作された芸術的な文学作品」という新しい意味付けとなったそうです。
童謡に対する新しい風が吹いている最中、作詞家・海野厚と作曲家・中山晋平によって『せいくらべ』はつくられました。
先に詩が1919年(大正8年)に雑誌『少女号』に掲載され、その後1923年(大正12年)に発売された『子供達の歌 第3集』に載ったことで初めて世に出ました。
この曲は「端午の節句の日に兄に背丈を計ってもらった弟」の視点で書かれています。
「兄」は海野自身であり、「弟」は海野の末弟と言われておりその差は17歳差だったそうです。
歳の離れた兄弟のほっこりする風景を2番形式で書き上げ、風情ある童謡となりました。
歌詞に垣間見える歳の差兄弟
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はしらのきずは おととしの
五月五日の せいくらべ
ちまきたべたべ にいさんが
はかってくれた せいのたけ
きのうくらべりゃ なんのこと
やっとはおりの ひものたけ
≪背くらべ 歌詞より抜粋≫
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『せいくらべ』は『こいのぼり』とおなじように端午の節句の歌として幼稚園、保育園で歌われる曲です。
1番では弟が兄に身長を測ってもらった結果、「おととし」に自分の背の高さにつけた柱の傷とあまり変わらなかったため、がっかりしているという歌です。
なぜ「おととし」なのかというと、去年海野がある事情で帰省できなかったからとされています。
病気療養のため、作詞活動に没頭したなど諸説ありますが、ハッキリとわかっておりません。
ただ、2年越しに兄に身長を計ってもらったのに羽織の紐の長さくらいしか伸びなかった、と嘆いている様子はなんだか微笑ましいですね。
静岡という場所を描いた歌詞
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はしらにもたれりゃ すぐ見える
とおいお山も せいくらべ
くもの上まで かおだして
てんでにせのび していても
ゆきのぼうしを ぬいでさえ
一はやっぱり ふじの山
≪背くらべ 歌詞より抜粋≫
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作詞の海野が静岡県出身のためか、2番には静岡の代名詞である富士山も出てきます。
柱にもたれながら富士山を眺める弟は、山の高さから背比べを連想し、そのうち「やはり富士はすごいなぁ」と感心しています。
富士山の様子もさながら、まだまだ小さな男の子の様子や思考を丁寧に描いた歌詞だとわかりますね。
海野家の記録となった曲
作詞の海野は結核によって28歳という若さでこの世を去りました。海野さんの弟が、のちに『せいくらべ』は「自分達、兄弟姉妹について書かれた生活記録だった」と、あるインタビューで答えているそうです。
とある一家の様子を描いた童謡ですが、なぜか身近に感じる歌詞なのはきっと同じ方法で背を測ったことがある大人が多いからではないでしょうか。
『せいくらべ』の歌碑は、静岡私立西豊田小学校の敷地内と、長野県中野市の中山晋平記念館にそれぞれ建立されているそうです。
昔の日本を懐かしむこの曲は、後世にも歌い継がれてほしいものですね。