2016年に一大ブームを築いたアニメーション映画『君の名は。』公開当時、上白石萌音がRADWIMPSの「なんでもないや」をカヴァーして話題を集め、それから3年を経て初タッグが実現した二人。若者を中心に大きな人気を集める二つの才能は、『楽園』の世界をどのように表現したのだろうか。
運命に翻弄され生きる人々
----------------
運命はどこからともなく やってきてこの頬かすめる
触れられたら最後 抗うことさえできないと知りながら
傷だらけで川を上ってく あの魚たちのように
私たちに残されたもがき方など いくつもなくて
≪一縷 歌詞より抜粋≫
----------------
人は、自分自身で生き方を選択することができる。しかし、生まれる場所や周囲の環境、自分の意思と関係なく降りかかる事象を、選択することは出来ない。
映画『楽園』には、様々な苦しみと悲しみを抱える人々が登場する。いつもと同じ日常、当たり前の幸せを感じながら生きていたはずだった。しかし、各々のそれはある事件によって奪われていく。
自分の力ではどうしようもない運命に振り回された時、私達に出来ることなんて高が知れている。その中でも生きていかなくてはならないとしたら、やはり傷つきながらもただひたすら前に進むしか無いのだ。
自分ではどうすることも出来ない不条理、誰かを失う悲しみ、ふとしたことで生じた誤解。大なり小なり、誰しも感じたことがあるだろう。それを避けて生きることなど出来ない。予測することも出来ない。何故なら、それが「運命」なのだから。
優しい曲調とは裏腹に、ひどく現実的で救いの無さを感じてしまう歌詞だが、それを包み込むような上白石萌音の澄んだ歌声が印象的だ。
その中に見出したい一縷の光
----------------
夢だけじゃ生きてゆけないからと かき集めた現実も
今じゃもう錆びつき私の中 硬く鈍く沈んだまま
でもね せめて これくらいは持っていても ねぇいいでしょう?
大それた希望なんかじゃなく 誰も気づかないほどの 小さな光
≪一縷 歌詞より抜粋≫
----------------
そんな運命に翻弄され、もがきながら生きている。一日一日を乗り越えることに必死になってしまう状況では、夢など見ている場合ではないと振り払い、目の前の現実だけで精一杯になってしまう。
しかし、そんな現実だけを抱えて生きるのは限界がある。荒んだ現実の中に、一縷の光となって照らしてくれるような存在を求めることは、決して間違ったことではない。
映画『楽園』で言えば、綾野剛演じる中村豪士と、杉咲花演じる湯川紡の関係であろうか。一つの事件により生じた辛い運命に翻弄されながらも、彼らはその不遇をもって共感しあっていく。そして、それによりまた大きな運命に流されていくのだ。
最後に温かく救いを与えてくれる歌
----------------
「夢だけじゃ生きてゆけないから」と 名も知らぬ誰かの言葉に
どれだけ心を浸そうとも 私の眼をじっと 見続ける姿
≪一縷 歌詞より抜粋≫
----------------
先に登場していた「夢だけじゃ生きてゆけないから」というフレーズが、台詞調になり復唱されている。“小さな光にすがっているだけでは生きていけない。現実に目を向けなくては”と諭され葛藤するような描写だろうか。
そんな現実を、彼らはきっとお互いに理解している。しかしそれでも、目の前の小さな光を消すことも、捨て置くことも出来ない。
----------------
私の夢がどっかで 迷子になっても
「こっちだよ」ってわかる くらいの光になるよ
土の果てた荒野で 人は何を見るだろう
誰よりも「ここだよ」と一番輝く星を
きっと見上げて 次の運命を その手で
手繰るだろう
≪一縷 歌詞より抜粋≫
----------------
「私の夢」、つまり自分を照らしてくれる大切な人や記憶、想いを失うことなく、自分がその道標として生きられるような「光」になるのだと語る歌詞。誰かのために、何かのために生きようとすると、人は強くなれるものだ。
今までの、切なく物悲しげなフレーズたちに比べると、やっと新たに大きな一歩を踏み出せたような印象を受ける。
運命を避けることは出来なくても、自ら新たなそれを手繰り寄せ、歩んでいく事はできる。序盤とは違い、最後に温かい救いをもたらすような終わりである。
天から降り注ぐように真っ直ぐな上白石の歌声は、まさに光を彷彿とさせる。きっとこの楽曲は、映画『楽園』の世界だけでなく、日常で運命に翻弄されながらも生きるすべての人々にとって優しい一縷の光となり得るのだろう。
TEXT 島田たま子