ジブリ映画「ゲド戦記」挿入歌を解釈
『劇場版 アーヤと魔女』や『コクリコ坂から』などのアニメーション映画を世に送り出してきた宮崎吾朗。自身が総合プロデューサーを務める「ジブリパーク」は2022年11月1日に開園し、非常に大きな話題を呼んでいます。
そんな宮崎吾朗の初監督作品が、アメリカのファンタジー文学を映画化した『ゲド戦記』(2006年)です。
挿入歌である『テルーの唄』(作詞・宮崎吾朗/作曲・谷山浩子)は、歌手・手嶌葵のデビューシングルとなりました。
監督自らが手がけた歌詞は、「こころをばなににたとへん」で始まる萩原朔太郎の詩『こころ』に着想を得たことでも知られています。
深く静かな孤独感をたたえた『テルーの唄』。
手嶌葵の切なく澄んだ歌声で紡がれるその歌詞には、果たしてどのような意味が込められているのでしょうか。
空を舞う「鷹」の哀愁
まずは1番の歌詞から見ていきましょう。
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夕闇迫る雲の上 いつも一羽で飛んでいる
鷹はきっと悲しかろう
音も途絶えた風の中 空を掴んだその翼
休めることはできなくて
≪テルーの唄 歌詞より抜粋≫
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太陽が沈み切らない薄明かりの中、語り手は一羽の「鷹(たか)」を見上げます。
その鷹から悲しさを読み取っているのは、見上げている本人が「いつも」鷹の存在に気づくほど孤独だからかもしれません。
続く「音も途絶えた」というのは、人々の活気が落ち着き、すっかりしんとした日没時を思わせます。
そんな静かな状況で空を舞う孤高の鷹。
一見、何者にも縛られない自由の象徴のようですが、空にいる限りは羽を休めることはできないので完全な自由とはいえません。
続くサビでは、そんな鷹に「心」を重ねているようです。
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心を何にたとえよう 鷹のようなこの心
心を何にたとえよう 空を舞うよな悲しさを
≪テルーの唄 歌詞より抜粋≫
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たった一羽で大空を飛ぶ悲しさ、壮大な自由を享受しているようで休息がかなわない悲哀。
「空を舞うよな悲しさ」とは、このような1羽の鷹に見る哀愁を表しているのではないでしょうか。
雨に打たれる「花」の哀切
続いて、2番の歌詞を見ていきます。
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雨のそぼ降る岩陰に いつも小さく咲いている
花はきっと切なかろう
色も霞んだ雨の中 薄桃色の花びらを
愛でてくれる手もなくて
≪テルーの唄 歌詞より抜粋≫
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今度のテーマは「花」のようです。
しとしと雨が降る岩陰に小さく咲いている花。
「色も霞(かす)んだ」というのは、雨で景色がぼやけている様子だと考えられます。
「薄桃色の花びら」という上品な魅力を持ちながら、雨のせいで人の目に留まらず、愛でられることもない花。
語り手は、そんな花の存在に気づき、切なさを感じ取っているようです。
次に、サビの歌詞に入ります。
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心を何にたとえよう 花のようなこの心
心を何にたとえよう 雨に打たれる切なさを
≪テルーの唄 歌詞より抜粋≫
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雨の岩陰に小さく咲く花に「心」を見ている語り手。
本来、花にとっての雨は成長をもたらす恵みであるはずです。
そんな雨によって美しく咲く姿が霞んでしまうという哀切。
これこそが「雨に打たれる切なさ」なのではないでしょうか。
互いに「一人」である寂しさ
最後に、3番の歌詞です。
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人影絶えた野の道を 私とともに歩んでる
あなたもきっと寂しかろう
虫の囁く草原を ともに道行く人だけど
絶えて物言うこともなく
≪テルーの唄 歌詞より抜粋≫
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ここでは「私」という一人称の視点で歌詞が綴られます。
どうやら「私」は、人影のない道を「あなた」と一緒に歩いているようです。
そんなお供に対して「あなたもきっと寂しかろう」と推し量る「私」。
「あなた“も”」とあることから、「私」もまた寂しさを覚えていることが読み取れます。
おそらくその原因は「絶えて物言うこともなく」にあるのでしょう。
「虫の囁(ささや)く草原」という表現は、二人を隔てる純然たる沈黙を引き立たせているように思えます。
終始しんとした雰囲気の中、いよいよ最後のサビです。
ここでは、直接的に「心」を何かにたとえている様子はありません。
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心を何にたとえよう 一人道行くこの心
心を何にたとえよう 一人ぼっちの寂しさを
≪テルーの唄 歌詞より抜粋≫
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「一人道行くこの心」や「一人ぼっちの寂しさ」とは、二人でいながらにして一人のように感じる、すれ違いや心の距離からくる孤独感なのではないでしょうか。
そして1番の「鷹」と2番の「花」は、実は「私」と「あなた」(あるいは「あなた」と「私」)のそれぞれが知覚し、感じたことだとも考えられます。
一方は空を、一方は地面を見ていたとすれば、この3番で綴られる「寂しさ」の説明がつきそうです。
同じ道を歩きながら違う景色に思いを馳せ、それを互いに共有せず、それぞれが「一人ぼっち」のように感じている二人。
そう考えると、人は誰しも孤独であり、その寂しさを抱えたまま生きていくことが人生なのではと思えてきませんか。
もしかしたら『テルーの唄』は、「心を何にたとえよう」と思いを巡らせることを通して「人は皆、孤独である」という人生の真理のようなものを提示しているのかもしれません。
あなたは「心」を何にたとえる?
今回は、手嶌葵『テルーの唄』の歌詞の意味を考察しました。「心を何にたとえよう」というシンプルな問いかけを軸に、人生の真理にまで手が届きそうな深遠な歌詞でしたね。
自由に飛びながらも休息がかなわない「鷹」と、雨の恵みと引き換えに美しさが霞んでしまう「花」。
曲中で心にたとえられたこれら2つに共通するのは、一見すると満ち足りているようで、実は何らかの欠落があるという点でしょうか。
いずれにせよ、人生や心といった大きなテーマについて考えさせられる楽曲でした。
「心とはこういうものだ」と明言するのは困難を極めますが、この機会に自分なりの「心のたとえ」を探してみるのも一興かもしれません。