今回は最新シングルのお話はもちろん、プロを目指していたほどの野球少年だった彼が歌謡歌手を目指した理由、デビューからここまでの道のりなどなど、たっぷりお届けします!!
小中高と野球一筋だった少年時代。
──新浜レオンさん、今日はよろしくお願いします!まずは今回UtaTen初登場ということで、その経歴からお伺いできればと思います。新浜:はい、かしこまりました。どうぞよろしくお願いします!
──とはいえ、レオンさんのプロフィールに関してはオフィシャルサイトにも細かく、すごい細かく…
新浜:書いてありますよね(笑)。
──そうなんですよ(笑)。すでにレオンさんのプロフィールは丸裸的な感じではありますが、ご本人からここで少し詳しく伺っても良いですか?
新浜:はい、もちろんです! えっと、そこにある通り、僕は子どもの頃からずっと野球一筋でして。もうそれこそ卒業文集とか小中高どこを切り取っても必ず“プロ野球選手になりたい”、そして“高校では甲子園に出場したい”と書いていたくらい、その夢をとにかくずっと追っていて。
本当に最後の最後まで“プロ野球選手になりたい”という目標を持ってやっていました。
軽く遊びでやっていたわけではなく、ずっと僕の人生には野球しかないと思って生活してきたので、今でも野球に対する想いはすごく熱いですね。今はもっぱら見る方ですけど。
しかもちょうど今(取材時)、甲子園真っ只中なんで…
──あ、そうですね! やっぱり見ているとアツい気持ちが蘇ってきたりしますか?
新浜:します。そして改めて球児の姿に感動するというか。県予選から見ていると、甲子園という一つの目標に向かって、その先の甲子園優勝に向かって一途に真っ直ぐにこう、何か“純粋に白球を追いかけている姿”って、こんなにも感動をもらえたりとかエールを送りたくなる、そんなパワーがあるんだなっていうのを改めて感じます。僕も歌い手になった今でもやっぱりそういう真っ直ぐにとか一途にやるということはすごく大切にしている部分なんですけど、今再びその大切さを球児からいただいていますね。
──なんてピュアな想い! 素晴らしいことですね。ちなみに母校は今年どうだったんですか?
新浜:今年はですね、ベスト32でした。ベスト16にはなれなかったんですよ~。ちょっと悔しい結果になってしまったんですけど、実は一度だけ仕事と仕事の合間で母校の応援にも一瞬だったんですけど行かせてもらいまして。お世話になった監督とかいろんな方にもご挨拶できて、すごくまたそれも刺激をもらえて嬉しい時間になりました。
──道は違えども錦を飾るというか、そういうお気持ちもありますか?
新浜:そうですね。今でもすごく母校も応援してくださっていて、コンサートとかイベントにも関係者の方がけっこう来てくださったりしていて本当にありがたいですし、いつか恩返しをしたいなって思っています。現実はまだまだ恩をいただいてばっかりなんですけどね。
実は昨年、日ハム対楽天戦で始球式をやらせていただいた時も、母校に帰って練習させてもらったんです。おかげでいい感じで投げることができまして。まあ、目標にしていた最低120Kmというのは達成できなくて悔しいんですけども(笑)。でもやっぱり今でもそういった恩師の皆さんが支えてくれているというのは本当に嬉しいことだと思います。
あ! すみません! 僕、野球のことしか言っていませんよね…っ! 長々とすみません。
もう野球が、野球愛がすごすぎて…すみません。
──いえいえ(笑)。でもこんなに一気に語れちゃうぐらい、本当に野球一筋だったというのがすごく伝わりました。ちなみにこの野球一筋の頃にも歌手になりたいというのはなんとなくはあったんですか?
新浜:あー。でも今思うと、なんですけど、最終的には実は歌手になりたかったのかなって思います。やっぱり小さい頃からそう思っていた気がしていて。というのも僕は常に学級委員長であったりとか応援団長、そして野球部ではキャプテンとかをすることが多くて。
──あ、リーダーのようなみんなの中心的存在で。
新浜:それこそ出し物とか、文化祭とかそういうところでもとにかく目立つ立ち位置に自らいましたし、人を笑顔にすることがやっぱり小さい頃から好きだったんです。
何より父が演歌歌手ということもあってその姿をやはりずっと見ていたというのが大きいですね。実は小さい頃に父親が“伯方の塩”のコマーシャルをやっていたことがありまして。
──お父様は2代目“伯方の塩”の歌唱歌手さんですよね。
新浜:そうです。その時に家族編というのがあって、僕はその時3歳か4歳ぐらいだったんですけど、一緒にコマーシャルに出させてもらったりしたんですよ。他にも小さい頃に父のステージで『大きな古時計』を歌ったりとか、『マツケンサンバ』を父のバックダンサーとして踊ったりとか。野球をやりながらそういうこともやっていたので、何か憧れというかいつか父のようになりたいというものはずっと心に秘めていたのかもしれないです。
──とすると、歌手を目指す前にも歌のレッスンなどをしていたんですか?
新浜:いえ、まったくしてないです。でもとにかく野球では声を出すことが本当に大切なんです。そういった意味では、この今の僕の歌は野球で鍛えられたことが大きいですね。
──……それは絶対嘘ですよね(笑)。
新浜:いや、本当ですよ!(笑) 本当にそうだと思っていて。僕は大きい声を出すことに小さい頃からすごく自信があるんです。その声を評価してもらって、ポジションもキャッチャーに最終的になったくらいなので。
──そうなんですか!? そんなことあるんですね、肩が強いとかじゃなくて。
新浜:じゃなくて。実はもともとピッチャーとか内野、ショートとかをずっとやっていて、高校まで唯一やったことないポジションがキャッチャーだったんですよ。
だけど高校2年の時に、ちょっと何度かミスをしてしまって、「お前内野クビだ!!」みたいな感じになったんです。でもそこからコーチがですね、救いの手を差し伸べてくれて、「ちょっとお前一回キャッチャーいってみろ」っていうことを言われて。でもそのキャッチャーになった理由がたぶん推測なんですけど、僕の声が大きいからなんですよ。
──ほんとですか?(笑)
新浜:本当に、本当ですよ。そういった意味ではもう本当に声でチームを引っ張っていたということもありますし、外野までずっと声を大きく通すくらいの声を毎日出していた、という意味では野球は大きかったのかなと思うんです。と、思い返してみても歌に関することはそれくらいしかしてなくて、歌うための技術みたいなところはもう一切やってないですね。
──ではもう声量以外の部分、なんなら声量も含めてすべて天然というか天性のもの?
新浜:そうなるのかもしれません。もちろん高校野球に徹して、その後甲子園の夢、プロ野球選手への夢に敗れてからは、歌のレッスンもさせていただくようにはなりました。
父のかばん持ちからスタートして、そこから父の歌を通じてレコーディングを見学させてもらったりとか、バックコーラスとか前歌もやらせていただいてその時に改めて父からレッスンしてもらったりとか。あとは父の関係者の方に指導してもらったりとかもあったんですけど、それまでというのは本当に聴いていただけですね。でもやっぱりこの聴いていたっていうのもすごく大きいのかなと思います。車に乗ればいつも演歌が流れて、テレビでもとにかく演歌歌謡番組が当たり前のように流れていたので、それを自分が歌わずとも、耳でずっと聴いていたし環境の中に常に音楽があったんです。
──なるほど。音楽というものが自然に自分の中に刷り込まれていた。
新浜:それはありましたね。音楽ももちろん好きでしたし。あとは本当に学生時代、プロ野球選手になりたいっていう想いは僕の中ですごく強かったんですけど、そのプロ野球選手になったら登場曲で父の歌をかけたいと思っていたんです。そうすることで、父も有名にすることができるんじゃないかということを思っていたので、それが小さい頃の密かな父に対しての恩返しの夢でもあったりしましたね。
憧れがいつしか確固たる目標へ。母の説得に要した4年の日々。
──いいお話です。野球一筋から歌手の道へというのはすぐに切り替えられたんですか?新浜:そうですね、高校3年で甲子園に出られず野球を引退した直後から、父のかばん持ちをスタートさせました。でもその頃はまだちょっと軽い気持ちというか、いや当時の僕的には軽く考えていたわけではないんですけど、今よりはずっと歌手というものを簡単に考えていた様な気がします。でも、かばん持ちをはじめて、よりそばで父の姿を見ることで本当にそこでいろいろ思うことがありまして。それまで野球をやっていた自分からしたら、世界一歌がうまいのは父親だと思っていて。本当に歌を通じて人に感動を与えていることとか、僕や姉や弟を歌一筋で育ててくれたこととか、父って本当にすごいな、歌手っていい仕事だなと思っていたんです。本当に、“いや、もう歌手って最高でしょ!”という感じだったんですよ。だけどやっぱり父を手伝えば手伝うほど、見たことのない父の姿やその苦労が見えてきて…。
──今まで知らなかったお父様の一面が。
新浜:はい。ましてや父が…何て言うんでしょう“指導されている姿”というのは僕の、一息子としてすごく何か、見たくなかったというのが正直なところというか。本当に正直、悲しい部分もあったんですけど、その感情をも超えて感じる父の凄さというのもあって。それを僕らが知らなかったというくらい、苦労を家に持ち込まなかった父をやっぱりすごく尊敬しました。
それと同時に、一時は「あ~やっぱり歌手の道って難しいな、こんな簡単に言うんじゃなかったな」とか思う瞬間もあったんですけど、そこをも超えてやっぱり父に尊敬を抱いて、父のようになりたいと思ったので、そこで改めて家族の前で歌手になりたいと話しました。
──憧れから確固たる目標という感じに変化したんですね。ご家族の反応はどうだったんですか?
新浜:…それが、こんな素晴らしい仕事なんだからみんな喜んでくれるかなと思ったら、母に猛反対されまして(笑)。
──あ、お母様が。
新浜:そうなんです。今まで野球をやっていた時は、もう誰よりも朝早く起きて山盛りのお弁当を作ってくれたりとか、泥だらけのユニホームをいつもきれいに洗ってくれて、一番応援してくれていた母が。だからすごくびっくりしたんですよ。
母は、今まで自分がやることに対して否定って基本的にはしなかった人なんですね。なんですけど、僕が本気で心から歌手になりたいってぶつけた時に……それを言うのも僕としてはこう緊張の瞬間というか、一大決心!という感じだったのにも関わらず、それを言った途端に「ほんっとにやめなさい」と。なんでここまで、ちゃんと高校まで勉強してきたのに、何を言い出すのというような感じで、本当に顔を真っ青にして反対したんですよ。そこに僕はけっこう衝撃を受けて。でも、僕としても父の姿やいろんな面を見た上で覚悟を決めて言ったことなので、ここで引き下がるわけにはいかない。ならばもう母をどうにか説得するしかないって思ったんですね。
──きっとお母様はお父様の苦労をすぐそばで全部見ていらしたからこそなんでしょうね。
新浜:(大きくうなづく)そばで見ていて、この歌手の世界というのは本当に甘くないと誰よりも母が分かっているからこそなんですよね。僕も、そうやって今だからこそ母が反対したというのは分かるんです。けれども当時は本当に反対される理由が分からなくて、「なんでなんで?」っていう感じでした。それでいろいろと話し合って、とにかくまずは大学に行きなさいと。父も大学に行ったということもあるんですけど、その大学に行く4年間の中で、それでも歌手になりたいのであればその時にまた考えなさいという結論に至りまして。
で、大東文化大学というところに進学しました。そこからは自分の時間も増えたのでアルバイトもしながら、父のかばん持ちもしながらという感じで過ごしました。あとはありがたいことに地元のチバテレさんで父の出演の時にバックコーラスをやらせていただいたり、家族トークみたいな企画がきっかけでアシスタントのMCをやらないかというお話をいただいてやらせていただいたりもしていました。これは毎週月曜日の番組だったんですけど、そこでアシスタントのMCをやらせていただいたことはすっごく勉強になりましたね。
なにせ今まで僕の演歌歌謡の道には父しかいなかったんですけど、その番組では新曲のプロモーションをしにいろんな演歌歌謡の歌手の方が毎週いらっしゃるわけですから。
その中で新曲の心意気であったりとか、いわゆる演歌歌謡曲の魅力というものを本当にいろんな方から聞いて実体験することができて、すごく大きな力になりました。改めて、演歌歌謡曲って本当に素敵だなというのを知ることができましたね。
でも、そういうテレビ出演などがあっても、それでも母は頷かないんですよ、まだ。「じゃあ、よし! 歌手になりなさい」ではなくて、「どう最近、勉強は。公務員とかどうなの?」とか(笑)。
──なんとかして違う道を(笑)。
新浜:そうなんです! 野球をやっていたから「消防士とかそれこそ警察官とか、そういうのいいんじゃないの」とか。3年になると、「そろそろ就活でしょう」とか「インターンとか行ってるの」とか。何かもうそんな話になってくるんですよ。で、僕としてはそれを聞きつつ“いや、これはまずいな”と思うわけなんです。周りの友達も就活を始めていましたし…。
──もうこれは許し出ないまま大学生活が終わってしまうぞ、と。
新浜:なのでまず、何かひとつ自分としてアクションを起こさなくてはいけないと思ったんですよね。なんせ今まで父ありきというのは正直否めなかったんですよ。どこに行くにしてもやっぱり父という存在があって、「息子さんいま勉強中なんでしょ」っていう風なことでやらせていただいたことしかなかったので。それで何か自分でできないかなと思った時に、せっかく大学にも行かせてもらっているのでその大学を活かして何かないかなと探していたら、ミスターコンテストっていうのがあって。
──通われていた大学のコンテストですね。『ミスター大東コンテスト2017』。
新浜:はい(笑)。自分の顔がカッコいいとかっていうのはひとつも自信がなかったんですけど。ただ、演歌歌謡曲を歌える機会がここではある、と。
──そっちが目的だったんですか!?
新浜:そうなんですよ、ここだけの話。僕は自己PRコーナーがあるのを知っていたので、あ、これ、学生に演歌歌謡曲を聴かせられるチャンスだなと思ったんです。そこで応募して、森田公一とトップギャランさんの『青春時代』という曲を歌わせていただきました。で、父のディナーショーとかもそうなんですけど、演歌歌謡の歌手がけっこう会場を練り歩くのを見ていたので、これを学生のみんなにやってみようと。ステージでただ歌うだけじゃなくて、いきなり会場に降りていって学生に握手してみたらおもしろいんじゃないかなとかと思ってやったんですよ。そしたらそれがけっこう思いのほか本当にウケて、ありがたいことにグランプリをいただけたんです。
──ご自身の力でグランプリ受賞という目標を成し遂げた。
新浜:で、その結果を持って母に再度チャレンジをするんです。改めて、ここまで来てもやっぱり父に憧れて歌手になりたいという気持ちは変わらない、「僕は歌手になりたいです」ということを伝えたんですね。そしたら父も母も、「あ、そうか」って感じで何か少しずつ、そこで一気に全ていいよとはならなかったんですけれども、初めてちゃんと話を聞いてくれたような感じがあって。そこからは本当に各社にデモテープを持っていろいろと回りました。周りが就活をやっている同じ時期に、僕もある意味、就活のようにレコード会社にあたって。けれども、なかなかなかなか決まらず…。
──けっこうな数を回られたんですか?
新浜:そうですね。それこそ誰々のお弟子さんとか付き人さんとか、何かそういう話も含めたら、もうかなりいろいろとあたらせていただいて。父のレコード会社とかも含めてあたったんですけれども、なかなかうまくいかずで。そうこうする内に、大学4年生になってしまったんですよ。
──気持ち的にリミットが近づいてきてる感じに。
新浜:そうなんです。大学4年になってしまって、母だけではなくて学校からも「お前だけだぞ就職先決まってないの」とか学校からのプレッシャーもあったりして。「お前のせいで就職率が下がるんだけど」みたいな冗談半分でそんな話も出てきて…。そんな時、ある方からビーイングを紹介してもらったんです。
──おお、ついに!
新浜:いや、だけどビーイングって聞いた時は、演歌歌謡の人いないよな…っていうのは思いました。正直、僕みたいな演歌界しか知らない者は厳しいよなとは思いつつもデモテープを聴いていただいて。そしたらなんと、一回歌いに来てという話になりまして。
そしてもうなんとなんとビーイング初、演歌界としても初というところでレーベルまで立ち上げていただいてデビューさせていただけることになりまして! それで今に至る、という流れです。